古家貴代美(のっぽさん個人事務所代表) ・のっぽさんからの伝言
NHKの子供番組で「できるかな」でのっぽさんとして親しまれた高見のっぽさんが亡くなってから明後日10日で1年になります。 のっぽさんは生前、自身の死について公表するのはしばらくたってからと、希望していたという事で、その訃報が伝えられたのは今年5月になってからでした。 古屋さんは事務所の代表として、また舞台や番組の共演者として40年近くの間のっぽさんの仕事ぶりを間近で見て多くのことを学んだと言います。
訃報が伝えられたのは今年5月10日です。(誕生日の日でもある。) 前年9月10日には亡くなっていた。 のっぽさんとは40年近いお付き合いがあるんですが、なんでも話し合える間柄でした。 「人間と言うのは寿命がくれば逝くという事は、自然で当たり前のことなんだから、そうしたことでガタガタしないよ。」と言っていました。 「僕は風の様に逝くから。」と常々言っていました。 数か月呆然としていました。 亡くなるまで元気で、死因は心不全でした。
私はぬいぐるみの劇団に入ったり、「歌のお姉さん」の番組でアルバイトをしていました。劇団の社長とのっぽさんが知り合いで、のっぽさんを或るイベントのスペシャルゲストとしてお招きして、一緒に出る機会はありました。 プロとしての一挙手一投足に凄いという連続でした。 幅の広さ、深さ、これを自分でもどう学んだらいいだろうと思いました。 幼児教育の大切さに気付き、幼稚園教諭の免許を取得し、勤務もしました。 タップダンスの教室にも行きのっぽさんに見てもらいました。 1995年より開始されたNHK「ノッポさん新シリーズ」のキミちゃん役で共演させて頂きました。
「やるからには兎に角一生懸命やる。」という事を教わりました。 手話の番組がりまwしたが、のっぽさんも手話の教室に通って学びました。 小さい人に敬意をもって向き合う、という事も学びました。 子供とは言わずに小さい人と敬意をこめて言っていました。 のっぽさんが8,9か月ぐらいのころ、起き上がって障子のガラス窓の桟につかまって、玄関口にいる両親に向かって「ここにいるよ。」と言う思いで、「ふぎゃー」と言った二度言ったが無視されていて、そっちがその気ならこっちはこうだと思って、ガラス窓のところに顔をバーンと突っ込んだそうです。 ガラスが割れて額が切れて、血が流れたのを見て、両親が駆け寄って来る姿を見て、「ほーら いわんこっちゃない。」と思ったそうです。 大変な記憶ですね。 その後も、いろいろな体験のなかで、大人の心のうち、めんどくさがっているとか、子供だから誤魔化せると思っているとか、本質をしっかりと見抜いていた。 60,70歳になっても、それは間違いではなかったと、だから小さい人は非常に鋭くて、賢くて、本質を見抜く力があると、自分がそうだったからと言っています。 「だから小さい人と言うんだ。」と、言っていました。
私は初孫という事で1歳の時に親戚も加わって誕生会を開いてくれて、皆私のために来てくれているんだと思って、ケーキに向かって行って、今日はこのケーキを舐めても怒られないなと思って、人差し指でクリームを取って舐めたら、皆がワーッと拍手してくれたのを覚えています。
のっぽさんは初対面の小さい人には最大限の敬意をもって、まず自分の名前を言って、「大変恐れ入りますが、貴方さまのお名前を教えていただけないでしょうか。」という風に言うんです。 そうすると誠意をもって答えようという風になるそうです。 信号も、もし自分が守らないで、それを見た小さな人が、渡ってもいいんだと思って、渡ってしまって事故で亡くなってしまってはいけないと思って、のっぽさんは生涯どんな場面でも信号を守っっていました。 覚悟をもって貫いた人でした。
ラジオ深夜便に一昨年11月に「わたし終いの極意」のコーナーにゲストとして出演していただきました。 「私が一生懸命やろうとしたことが、おちびさんに伝わったんじゃないかと思います。 だからこのおじさんは大好きと思ってくれたのではないかと思います。」とそのコーナーで言っていました。 「大きくなって、のっぽさんに出会った時にニコニコしてくれるのは、小さかった頃の自分に会いに来ているんだよ。」と言っていました。
仕事を引き受ける場合でも、僕に何を頼みたいんだろう、何を望んんでいるんだろう、という覚悟がありました。 「ほどほどを知りなさい。」とも言われました。 ものを大切にする人でもありました。 「私終いの極意」での答えとしてはのっぽさんはこう言っていました。 「それはほどほどに、という事です。 友達付き合い、自分の欲望、自分に何か意見があったとしても他人様に出す時には、「ほどほどに」という事です。」