中谷比佐子(きものジャーナリスト) ・着物が教えてくれたこと
女性誌の編集記者を経て、着物を切り口に日本の文化や日本人の考え方を伝えるきものジャーナリストとして、半世紀余り活躍しています。 着物の美しさや着物のしつけなどを伝える人が多い中、素材である絹や麻に注目して生産地を訪れたり、日本の手仕事を次の世代に繋ぎたいと、全国の職人の技を紹介したりするなど、作り手側に目を向けて取材を重ねてきました。今年87歳を迎えましたが、ご自身のもつ知識を少しでも多くの人に伝えようとSNSの発信を毎日、又動画の配信は週一回欠かさずに行っています。
着物は「縦絽」(たてろ)という種類、帯は「芙蓉」です。 季節を着るという事が好きです。 旬のものを身に付けるという事は意外と簡単です。 処暑(厳しい暑さの峠を越した頃)を過ぎると薄物は着ないという風に、私たちは教わっていますが、とてもそんなことは言っていられないですね。 臨機応変です。
1936年大分県生まれ。 共立女子大学文芸学部卒業後、出版社に就職、子供向け編集に携わりますが1年で退職、同じ系列の出版社で女性誌の編集記者となりました。 そのころに草木染めに出会って、和の魅力に開眼し、全国の産地に赴き職人たちの取材をはじめます。その後独立して、着物に関する事業を始めてもう半世紀余り、現在も展覧会の企画や書籍の執筆を続け、最新刊は今年の夏に出版された「続着物という農業」です。 ファッションや文化の面から捉えられることの多い着物を、原材料である絹や麻などから紐解いて、大地とのつながりのなかで、多くの人を介して作られる様子を描いています。 又着物を知ると日本が見えてくるをテーマに、月例の勉強会やSNSで発信するなど、多忙な毎日を送っています。
小さい時から企画をするのが好きなんです。 大学でもコーラス部を作ってみたり、そういった癖があるんでしょうね。 小学校は2年間ぐらいは病気で寝ていました。 4人兄弟の末っ子で、一番上の姉とは15歳違います。 お稽古事をして礼儀作法を教わっていました。 姉たちが着物を着るのは見ていました。 母は亡くなるまでほとんど着物でした。 着物を着る女性は古いと思って割と拒否していました。 着物を着るようになったのは20代後半からです。 父は弁護士でしたが、ライフワークは聖書の研究でした。 こうしろああしろという事はなかったです。 東京の4年生の大学を受けて、「受かった」と言ったら「ああそう」という感じでした。 一つ条件があって寮に入る事でした。
学長は鳩山薫さんでした。 「自由と平和」を掲げていて、とっても楽しかったです。 田舎者なので言葉をきちんとしようと思って放送部に入りました。 現場のアナウンサーが来て教えてくれました。 ドラマの脚本なども書いたりしていました。 出版社に入りますが、親は大反対でした。 「たのしい5年生」という子供向けの雑誌の仕事をしました。 1年で辞めて、女性雑誌『女性自身』『二人自身』の編集記者として、いろんな現場に行って楽しかったです。
病気になって、身体が持たなくて月刊誌に行って着物と出会います。 ネタ探しにデパートを歩いていたら、「万葉の色を染める」という展示会があり、山崎 斌(やまざき あきら)さんという方が額田王の歌を知っているかと言われました。 「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」 紫の畑は天領で、当時は天皇、皇后の色であったという事でした。草木染め、着物の側面を知りました。 山崎 斌さんは島崎藤村の弟子でした。 「草木染め12か月」というページを作りました。 草木染はその時の基本とか、その年の気象条件で色が変わります。 化学染料に対して「草木染め」を山崎 斌さんが命名しました。 当時はまだ私は洋装でした。
「洋装で来て、着物のことがわかるのかな。」という事を耳にして、以降着物を着て20年間行きました。 着物を着ることでも物凄く勉強になりました。 当時は問屋の組織がしっかりしていました。 着物は必要な人が必要な時に買うものだという感覚でした。 地方の小売り屋は各地方の文化をちゃんと勉強していて、その文化に合う着物の勧め方をしていました。 呉服屋と太物屋さんと別れていて、呉服屋は絹物等を売っていて、太物屋屋さん(木綿などを太物と言っていた。)はウールなどを売っていました。 今は一緒になっていて変わりました。
平成に入って着物は売れなくなっていきました。 それまでは小売り屋が問屋から買って行っていました。 このころになると、着物を借りて行って売る、残ったたら返すという事になり、一番困るのは作り手です。 作り手がどんどん少なくなっていきました。 誰にでも合いそうなものを借りてくるが誰にでも合わない、そんな感じです。
着物の魅力は、着物を知ると日本が見えてくるという、その一言です。 着物の素材を知ると江戸時代の藩政に出てくる。 徳島の蜂須賀家は藩政を豊かにするために藍染の藍を始めたり、南部染め(南部藩)とか江戸の文化が判ります。 取材で、日本茜、日本紫紺に出会って、それだけで染めている人にも出会いました。 人に伝えたいという思いが湧いてきました。 展示会、SNSの発信とかに繋がって行きました。 蚕は一頭と数えます、家畜なんです。 着物一枚作るのに3000~5000頭になります。 糞まで人は利用します。 絹は凄い素材だと思います。
息抜きはオペラで歌っています。 発声の仕方が着物の着付けの時の骨の動かし方と一緒なんです。 ステージで歌う時も着物で歌います。 着物で歌うと腰が決まる、そうすると声が出やすいと言います。 クラシックバレエもやっています。 骨の使い方が着物に繋がってきます。 「衣食住」と有りますが、なんで「衣」が一番先なんだろうと、「食」が一番上なのではないかと思っていました。 「衣」が無いと人間らしく生きられない、「衣」をどう考えるのかというと、自然が恵んでくれるもの、草花、蚕などのものを身に付けることが一番大切な事かなと最近思って、それで「衣食住」だなとやっとわかったという感じです。 蚕は全部自分の命を人間に差し出している、無条件の愛ですね。