千玄室(裏千家 前・家元) ・一椀の茶にこめた思い 後編
1923年(大正12年)4月生まれ、5人兄弟(姉が二人弟が二人)。 姉が二人で祖父はがっかりしていたようですが、私が生まれて祖父が喜びました。 祖父が「政興」という名を付けてくれました。 弟が二人生まれて、何かというと「お兄ちゃまだからしっかりしなさい。」と言われました。 厳しく育てられました。 幼稚園で黒パンとジャムと牛乳が出ます、これが好きでした。 アメリカのワーレン先生が園長先生で英語で教えてくれて、英語に関心を持ちました。 一番嫌いなのが算術でした。 歴史など西暦何年とかよく覚えました。 同志社中学ではキリスト教系なので毎日朝8時半にはチャペルに入り、牧師の頌栄を聞いて、バイブルを開き、讃美歌を歌います。 5年間すっかりキリスト教の教えを身に付けました。 家では朝父と一緒に仏間でお参りをします。(お経を聞きながら) 屋敷にはお社があってお地蔵様があり柏手で拝むわけです。 神道、仏教、キリスト教これが身に付きました。
日本に伝統文化としての茶道を教えるという事が始まりました。 同志社創立者の新島襄の妻新島八重が女性教育に茶道を取り入れました。 私は中学3年生のころに母方の祖母が茶道のお稽古をしました。 母からは武家の歩き方の作法などを教えられました。 いまだに姿勢がいいです。 「何で父からは教えてくれないのか。」と言ったら、「私は師匠だ、なんでお前から教えてくださいと言ってこないのか。」と言われ青天の霹靂でした。 弟たちは甘やかされて茶道のことは知らず、私が戦争から帰ってきた時には「よかった よかった」と言ってくれて、後を継がなくて済んだという事で、そういっていたようです。 後を継ぐ者しか「千」の名を継げません。 三千家ありますが、集簇と言います。 弟たちは昔から養子に行くか千家同士でやり取りをして入り混じっていて、別々ではないんです。
戦後、大学に復学しました。 大徳寺管長後藤瑞巌老大師の元で禅の修行をしました。 私より半年前に入った僧侶がいて、盛永 宗興という人で、後に花園大学の学長に成ったり、禅研究文化研修所の所長に成ったり、妙心寺派の管長になる手前でなくなりました 。 修業は大変でした。 食事も朝はおかゆと梅干、薄い味噌汁、昼はおうどん、夜は残り物を集めたもので煮っころがしを作って、麦飯と白米の混ざったものでお替りは出来ない。 朝は4時に起きて座禅を組んで、「公案」(難しい問答)を行います。 「無」とは何だとか。 又「作務」(自給の僧院生活に必要な日常作業)と言って、庭の掃除をしたりします。
草を抜いていたら、瑞巌老大師が後ろから「今どんな気持ちで草を抜いているのか。」と言われました。 部屋に連れていかれて、「なんも思わずに草を抜いていたやろ。 あの草も生きていたんだぞ。 それに対して無造作に何も考えないで抜いているのか。 あんたな 戦争に行って生き残りや。 生き残りらしく命を大事していけ。 生きている草もすみませんという気持ちで抜かなあかん。」と言われ、その時初めて「無」だと、いろいろ老師から10年間鍛えられました。
特攻の死の経験から、なんでもできるという気持ちはあり増上していました。 それが老師には判っていてバチンと叩かれました。 CIE(Civil Information and Education Section 民間情報教育局 ) に女性の局長が居て、その人がお茶が大好きでした。 アメリカに日本の伝統文化を伝えて欲しいという話がありました。 アメリカに行くのは厭だと思っていましたが、戦友から、ダイクという将軍が「日本にはアメリカの民主主義よりももっと古くから日本には民主主義があったんだと、これは茶道だ。」言いました。 千利休は、茶室に入ったら武士も丸腰でいれ、商人、農民も一緒にお茶室に入れた。 「和敬清寂」(主人と賓客がお互いの心を和らげて謹み敬い、茶室の備品や茶会の雰囲気を清浄にすることという意)をみんなに教えた。 それを聞いてアメリカ行きを決めました。
昭和26年1月10日に出発しました。(軍用機で) ハワイ大学に籍を置いて2年間いろいろな所に行きました。 ニューオリンズに行った時には黒人に対する扱いが平等ではない、民主主義は嘘だと思いました。 昭和30年に結婚しました。 彼女はフランス語が得意でした。 吉川英治先生に仲人してもらいました。 彼女の助言で「一椀からピースフルネスを」という言葉が生まれました。 お茶は緑で、自然共生。 戦争は緑を消してゆきます。 ゴルバチョフもここへ2回来ています。 鄧小平も3回来ています。 習近平は来ていないが、いろいろな人がお茶を尊敬してくれます。 お茶は文化であり、健康であり、友好手段の一つでも有ります。 平和外交にはお茶が一番です。 この前には北朝鮮と韓国の大使が一緒に来て、会場がざわめきました。 一緒に座ってお茶を飲んでくれました。 各国の大使が吃驚していました。