桂才賀(落語家) ・笑わせて、泣かせて、寄り添って
才賀さんは落語家として長年活躍する傍ら、少年院や刑務所を訪問する活動をしてきました。 今回は1000回を超える 訪問活動を通して感じた落語を演じる事の意味や、面接の場で垣間見た受刑者たちのさまざまな思いなどについて伺いました。
1950年(昭和25年)東京都大田区出身、海上自衛隊に務めた後、1972年九代目桂文治師匠に入門。1985年9月に真打昇進、七代目桂才賀襲名。 二つ目時代からテレビの演芸番組などで活躍、一躍全国に顔が知られることになります。
児童劇団の子役をやっていました。 中学1,2年からテレビに出させてもらっていました。 落語家だったら自由に出来るよと先輩に言われて、調べるようになって落語家の道に進むようになりました。 九代目桂文治師匠の門を叩きました。 「私の弟子になりたければ兵隊に3年行ってきなさい。」と言われました。(断る口実だったと思います。) 陸上自衛隊は期限が2年、航空自衛隊、海上自衛隊が3年でした。 海上自衛隊の方がいろいろ体験できると思いまして、海上自衛隊に行くことにしました。 舞鶴の教育の場所に10か月行きました。 「はるさめ」という護衛艦に勤務することになりました。 グアム島に訓練をしに行きました。 当時横井正一さんがまだグアム島にいて、訓練から舞鶴に帰って来て2日後に、横井さんがグアム島で発見されました。
潜水艦を見つけるソナーに適性があっているという事で、呉の江田島にあるソナーの学校に入校しました。 2年半が過ぎて、最後の6か月は横須賀の兵隊として機雷敷設艦「宗谷」に乗り込み、3年間が過ぎました。 師匠のところにいって、「3年の任期無事終えて戻ってまいりました」と言ったら、「あんた、誰」と言われてしまいました。 「やってみるか」という事になり正式に入門が許されました。
久里浜少年院の教務官と居酒屋で知り合ったこともあり、前座修行も終えて二つ目になると自由が利いて、落語ってお説教なんだという事も理解して(落語はもともとはお寺から発生している。 前座、高座もお寺での言葉)、少年院に行ってみようと思いました。 久里浜の篤志面接委員とさせてもらいました。 毎月行くようになり、全国のいろいろな少年院、刑務所のすべてを回って(交通費は出ないが)1000回を越えました。
親を泣かせている人たちなので、親孝行の話がいいんじゃないかと思って、「孝行糖」などいろいろな演目をやりました。 必ず感想文を送って来ます。 ほとんど「落語を聞くのは初めてです」、という書き出しです。 聞くと面白いし、参考になったというような内容でした。 笑った後の顔はとてもいい表情をします。 聞く前の表情とは全く違います。 女性の少年院、刑務所では建物が揺れる程笑います。 そうなるとまた行かなくてはと思うようになります。 この活動は40年を過ぎました。
寄席では使えないが、慰問に行った時だけの専門のネタがあります。 自分で作りました。 「岸壁の母」という曲がありますが、「面会の母」と変えて、他の方と一緒にコントをやりますが、皆さんが涙流して喜びます。 刑務官も涙しています。
万引きから始まって、高いものを盗むようになっていきます。 カツアゲもそうですし、自分にまけて楽な方を取ってしまうんですね。 愛情の不足、貧しさ、能力の差などいろいろあると思います。 前科者について見る目が、昔も今もあるわけです。 率先してそういった人を使ってくれる方がどんどん増えて欲しいと思いますが、こればっかりはなかなか難しいです。 小学校低学年から万引きはどうしていけないのかとか、など教えて行かないといけないのかもしれません。 「お天道様が見ているぞ」という感覚を失わないことは大事です。 どう見てもそっちの方の関係者から、都会で頭を下げて挨拶されることは何べんもありました。 刑事さんなんかと居酒屋で飲んでいたりすると、あちらのお客さんからですと、ビールを何本か頂いたりウイスキーを頂いたりすることが何べんもありました。 こちらも同じものを店の人に頼んで持って行かなくてはいけない。