橋さんの師匠で戦後日本の歌謡界を代表する作曲家吉田正さんについて、話を伺いました。
80歳(傘寿)を迎えました。 去年入学した京都芸術大学(通信)で書と画をやっています。 最初遠藤実先生のところで、3年間歌の基礎を教えてもらいました。(中学生) 母が歌が大好きでした。 悪ガキとつるみ始めたらしいという事で母が歌の勉強をさせようと思って通い始めました。 コロンビアのオーディションを受ける事になり、「人生劇場」、「蟹工船」 の2曲を歌いました。 中学生だからまだ無理だといわれてしまいました。 数か月後に遠藤先生と一緒に吉田学校に行くことになりました。 先生が気に入った人だけを自宅に呼んでレッスンをするんです。 玄関に入って遠藤先生が上がって、その靴を直して、自分の靴も直して上がった様子を吉田先生は見ていたようで、「気に入った。」と言ってくれて、「歌わなくてもいい。」といってくれました。
「有楽町で逢いましょう」「誰よりも君を愛す」「いつでも夢を」など、数々の名曲を残した作曲家の吉田正さんは、1921年茨城県日立市に生まれます。 20歳で召集されて水戸陸軍歩兵第二連隊隊に入隊、中国東北部満洲で終戦を迎えた吉田さんは、その後シベリアに抑留されます。 ようやく帰国がかなったのは終戦から3年後の1948年(昭和23年)でした。 NHKラジオののど自慢に出場したシベリアからの帰還兵が歌った「異国の丘」という歌が流行していました。 当初この歌は作者不明とされていましたが、吉田さんがシベリア抑留中に書いて、元日本兵の間で歌い継がれていったという事が吉田さんの帰国後に判りました。 それがきっかけとなり、その翌年から日本ビクターの専属作曲家になった吉田さんは数多くの作品を世に送り出すとともに、フランク永井さん、松尾和子さん、橋幸夫さん等日本を代表する歌手に育て上げました。 「歌はいつか読み人知らずになり、本当にいい歌は永遠の命を持つ」、この名言を残して77歳で亡くなったのは1998年(平成10年)でした。 数多くの歌謡曲を作り、国民に夢と希望と潤いを与えたとして国民栄誉賞が贈られました。
「潮来笠」でデビューしたのが1960年、当時17歳になったばかりの高校生。 週に2回吉田先生のところに通ってレッスンを受けました。 当時、「有楽町で逢いましょう」「誰よりも君を愛す」などのヒット曲をすでに出していました。 デビューの日取りが決まったといわれて、7月5日だといわれました。 もう1曲は出来ているといわれて、それが「潮来笠」でした。 「伊太郎旅歌」もありました。 歯切れがいいので股旅物で行きませんかという事になったようです。 「あれが岬の灯だ」「君恋い波止場」もありました。 レコーディングとなり、オーケストラで本番となりました。
「潮来笠」の人気が大爆発をして、7月発売で、レコード大賞新人賞、紅白歌合戦にも出場、全国に名前が知られるようになる。 その後吉永小百合さんとのデユエットで日本レコード大賞を受賞した「いつでも夢を」「恋のメキシカンロック」などまた旅演歌とは全く違う違うジャンルの曲を次々ヒットさせる。 全部吉田先生の考えです。
1964年に出した57枚目のシングル「大利根仁義」」からは、他の方の作品も増えてきた。 これも吉田先生の考えです。 先生とは銀座で酒を飲んだり、映画の世界に入ったこともありスケジュールを合わせて京都で一緒に飲んだりしました。 ゴルフは僕が先生なんです。 先生はゴルフは全然やって居なくて、先生の近くの練習場で始めました。 先生はどちらかと言うとせっかちですぐ打っちゃいます。
1998年(平成10年)77歳で亡くなりました。 闘病生活の先生をちょくちょくお見舞いできなかったのが残念です。 歌謡曲で1800曲あり、196曲が私のために書いた作品でした。 「江梨子」への思い入れはあります。 歌手とし引退をしました。 レッスン中に「歌は上手くなるな。」と言われました。 「プロが上手くなるのは当たり前で、それ以上に技巧に走るのは嫌いなんだ」と言われました。 心を込めて歌う事を先生は求めていたんだと思います。
吉田先生への手紙
「・・・先生がそちらに行かれてもう26年も経ってしまいました。 私のデビュー曲の「潮来笠」から今年で63年になりました。 ・・・196曲こんなに頂けるとは思っていませんでした。・・・今年5月3日に80歳になった私は歌手の引退を決意しました。・・・書と画の世界を学んでいます。・・・芸術の世界に挑戦と頑張ろうと思います。先生これからも私の新しい世界を、天界からどうかご支援いただきたいと心からお願いいたします。」