山村武彦(防災システム研究所所長) ・防災に生きて60年 前編
ここのところ全国各地で大きな地震が発生したり、線状降水帯や台風の影響で水害が起きたりと、災害が相次いでいます。 地震、台風、大雨などの災害に対して、どう備えるかという研究をおよそ60年に渡って続けている方がいます。 東京にあり防災のシンクタンク「防災システム研究所」の所長で、防災アドバイザーの山村武彦さん(80歳)です。 山村武彦さんはこれまで世界中で発生した300か所以上の災害の現地調査を行ってきました。 山村さんに「防災に生きて60年」というテーマでお話を伺いました。
日本は地震多発国です。 年間1000回から3000回以上ある場合もあります。 2011年の東日本大震災の時には1年間で1万1000回ぐらい有感地震が発生しています。 今日までの100日間で有感地震が680回(6.8回/日)発生しています。 能登半島の地震、千葉南方地震など、震度6弱、強という大きな揺れを感じています。 それぞれ全く違う地震なので、首都直下型地震はむこう30年以内に70%の確率で発生するといわれていて、南海トラフ大地震は70~80%の確率で発生するといわれている地震とは少し断層とか場所が違う、特に能登半島の地震は全然違う群発地震で、直接首都直下地震や南海トラフ大地震に影響はないと思います。 ただ両方ともいつ起こるかわからない地震なんですね。
雨が降る確率が70%と言ったら傘を持っていきます。 でもこの2つの地震は70%、70%~80%と言われても、何となく先の様に思われる。 直ぐには来ないだろう。30年後の間に来るだろうと思っている方も多いと思いますが、もしかしたら今夜かもしれない。 他の地域は安全と思われてしまう場合があるが、日本中いつでもどこでも震度6強に備えて準備しておく必要があります。 想定通りに地震が来るとは限らない。
防災に取り組むきっかけとなったのは、1964年6月16日に発生した新潟地震がきっかけでした。 13時なのでお昼ごろの地震でした。 私は東京にいました。(21歳の学生) 東京も揺れて、震度4~5ぐらいだったと思います。 友人が帰省中で連絡が取れなかった。 カンパで集めたお金で缶詰などをリュックサックに背負って友人と二人で行きました。 空が真っ暗でした。 石油コンビナートのタンクが火災で炎上していました。 友人の家は大丈夫でした。 ボランティアのまねごとみたいなことをしました。(当時ボランティアという言葉はない) 夜NHKのラジオが「不安な夜をお過ごしの皆さん、もう一度新潟国体で示した新潟の団結力を発揮してこの災害から立ち上がりましょう。」という今言葉が胸に来ました。 地震の4日前まで新潟国体が開催されていました。 私にとって生まれて初めての大規模地震で衝撃的でした。
1959年の伊勢湾台風で5000人に犠牲者を出して、2年後に災害対策基本法ができました。 そのころから防災という言葉が使われ出しました。 あの頃でも6年に一度の大地震が起きていました。 東京に帰って調べて見ると、しかし時間が経つと忘れて行ってしまう。 被害を少なくするためには何をするべきかを考えたんですが、地震学はあっても防災学、危機管理学を教えたり研究する機関があまりなかった。 現場を回って報告書を作っていきました。 防災アドバイザーと言われるようになりました。
命を守るという事は1964年以降やってきたので、災害は地震、火災、水害など見直すと、共通の対策や法則もあるだろうと思って現場を見ますが、結構お金もかかります。(特に海外) 防災を専門にやって行こうと決めました。 60年経って、人間は弱そうで強いし、災害に会う人もいるし、準備して災害から逃れた人もいます。 ちょっとした時間のタイミングとか場所によって犠牲になるケースも多いです。 家も人間も壊れやすいと感じたし、その後立ち上がる力も強いですね。 人間の愛おしさを感じます。
真実は現場に行かないと見えない。 現場の人は災害直後は話したがらないと思うかもしれませんが、みんな話したいんですね。 話すとほっとしたような顔をされます。 これまでに300か所以上の現場に行っています。 北海道南西沖地震、奥尻島が大きな被害を受ける。 停電のためカンパで購入して発電機を配布しました。 その10年前に日本海中部地震があり、津波により100人以上の犠牲者を出しました。 奥尻島も津波が襲ってきました。 その教訓を得た人が逆に亡くなっているケースもありました。 日本海中部地震発生後、約17分後に奥尻島を津波が襲っている。 そのことを覚えている人が居て、軽トラに荷物を積んで岬の突端を回って高台に避難しようとした人達は5分後ぐらいに津波でみんな流されてしまいました。 前回の災害に事を基準にして考えると間違ってしまう場合もある。
2004年のスマトラ島沖地震、M9.1~9.3。 12月26日に発生した地震。 その2か月前に新潟県中越地震が発生しています。(10月23日) その調査をしていたのですぐにはいけなかった。 正月を返上して現地を回りました。 海岸線の人たちは早く逃げている。 海が見えない所、津波が来ないだろうと思っている人たちが多く犠牲になっている。 20万人を超える犠牲者と言われている。 スリランカではかなり遠いいので地震の揺れはほとんど感じない。 津波だけが来て、ヤーラ国立公園の動物公園に観光に来ていた日本人が10数人犠牲になってしまった。 チリ地震では日本でも約140人の犠牲者を出しています。 動物園の動物は犠牲になっていない。 象は津波が襲ってくる周波数を感知したのではないか。 象が一斉に海とは反対方向に逃げ出したので、多くの動物も一緒に逃げてほとんど犠牲になっていない。 そこは1~2mの津波に襲われていました。 現地に行かないと判らないことが多いです。
インドネシアのスンダ海峡で火山が爆発して津波が起きました。 最大7mの津波が襲ったんですが、広い範囲で起きた津波にもかかわらず、亡くなった人がたった50人と言われています。 夜の8時で、噴火なので地震もないし、噴火の音も聞こえなかった。 多くの人が何となく察知して高台に避難していた。 鶏を放し飼いにしていて、いつもと違う、鶏が騒いでいる。 海の音が違う。 それで避難して助かった。
1995年阪神淡路大震災の時には大阪にいました。 突き上げるような揺れで起きて、ラジオで情報を聞きました。 淡路島北端部が震源だとするならば、まっさきに兵庫県神戸海洋気象台が近いので、何故そこの情報が出てこないのだろうと不思議に思いました。 それでは神戸もやられたのではないかと思いました。 2時間後に神戸に行って、救助活動のお手伝いもしました。 人間一人助けるのも大変な作業です。 ノコギリ、チェーンソー、ジャッキとか道具が欲しかった。 鉄パイプが役に立ちました。 亡くなった人の多くは地震発生後14分以内で亡くなっている。 早く助けなければ助からない。 近くの人が助けられる道具をちゃんと用意しておく必要がある。
隣近所の付き合いが密なところほど、犠牲者を救うのは早かったですね。 自衛隊、消防隊などが来る前に、約77%の人は近くの人(近隣の人、親戚、通りがかりの人など)が助け合って救助活動を行っています。 自力脱出困難者3万5000人のうち、77%は近くの人に助け出されている。 遠い親戚よりも近くの隣人なんですね。 「遠水は近火を救わず」という言葉があります。 近くの火事を消せるのは人です。 「近助」、「互近助」と言っています。 高齢化社会ですと、みんながみんな元気な人ばっかりではない。 「あのおばあちゃんは確かあの部屋で寝ている。 まずそこから助け出そう。」そういった助けが、「互近助」なんですね。
「互近助」、普段から見守りあいです。 普段から挨拶が交わせあう付き合いをしていれば、いざという時に助け合う事が出来るんだと思います。 「互近助」は思想だと思います。 隣近所だけではなく、自治体、地域、国同士にも言える事だと思います。 防災は自助、共助,公助と言われてきましたが、共助というよりは向こう三軒両隣の「近助」が 助け合いの実績が多いんで、これが大事かと思います。