石井稔(福山ばら会 会長) ・〔心に花を咲かせて〕 庭にも道にもバラがいっぱいの街
広島県福山市は街のあちこちで薔薇が咲く100万本の薔薇の街だと聞きました。 その活動は市民の情熱で成り立っていて、まだ日本では薔薇が珍しかった戦後復興期に始まったという事です。 どんな街でどんな活動をしているのでしょうか、福山薔薇会会長の石井稔さん(67歳)に伺いました。 福山薔薇会も67年の歴史。 会社を経営しながら薔薇作り、薔薇の街作りに熱心に取り組んでいます。
薔薇の街は一人の市民の力で始まって、それを引き継いだ市民が、皆が薔薇好きな街を作ろうと頑張っている。 薔薇の街は日本全国20数か所あります。 皆が薔薇を栽培するという事を福山ではやっています。 福山ではおおきな薔薇花壇はないです。 福山薔薇公園もそれほど大きくなく5000本ぐらいの薔薇が植えてあります。 福山では市民が育てるという事が基本になっています。 街中で100万本を越えています。 400~500ぐらいの薔薇花壇があります。 街道筋は行政が植えていますが。 福山では毎年6000~8000本の薔薇を予算を決めて、無料の配布をします。 個人は5本まで、企業は50本まで無償でもらえます。 小中学校全校に薔薇が植えてあります。 特別に推進があります。 100万本の薔薇の夢を目指してきました。 子供達の薔薇の剪定方法とか知っておいてもらうと大きくなって薔薇作りをすることができる。
小学校にあがると全1年生に薔薇の苗をあげます。 植え方とか育て方が記載されています。 家族で薔薇を育ててもらう。 福山では「ローズマインド」という言葉があります。 「思いやりと優しさと助け合い」、薔薇を育てる時にも必要なことです。 それをベースに学んでもらいます。 薔薇の棘が刺さって手が腫れたといった方がいましたが、それは棘ではなく「イラガ」という虫に刺されて腫れたものです。 棘は下向きになっているので「可愛いね」と言って撫でてあげる。 薔薇のコンテストと、「私の好きな薔薇大賞」といって、切ってきた薔薇の人気投票をします。 コンテストは200~300人ぐらい参加します。 花の数は500~600ぐらいです。 薔薇の花は好みがありますので「私の好きな薔薇大賞」はばらけます。 1位は投票500に対して74票でした。
地球温暖化で開花時期が早まってきています。 第3日曜日あたりを薔薇祭りの日にしています。 今年は連休中に咲いています。 私が会長を引き受けた10数年前は年に一回薔薇の講習会をしていました。 月一回、第四日曜の午後に薔薇の講習会に決めました。 最初は20~30人でしたが、今は70~100人になります。 薔薇の相談も受け付けています。
福山では昭和20年8月8日にB29が飛来して、市内の8割がたは丸焼けになりました。 10年ぐらい経った時に、薔薇を植栽しながら美し街を作って行こうとう考え方がありました。 実業家の中村金二さんという方がいて、横浜の博覧会に行って、薔薇を見て感激したそうです。 東京の百貨店で薔薇を購入して持って帰りました。 上京するたびに薔薇を買って帰ったそうです。 近所に市長さんの家があり薔薇の花が目に留まったようです。 都市計画のなかで地域の人と一緒にという薔薇公園構想を発表しました。 各町内会で花壇を作って植えたが、薔薇は当時珍しかったので花泥棒が来るわけです。 そういった中で薔薇公園が出来上がってゆきます。 福山市は元々は菊の町でした。 市の花に薔薇を加え「菊と薔薇の街」という事になりました。 段々薔薇花壇が広がって行きました。
福山街つくり協議会があり、花壇のコンテストをしましょうという事になりました。 市の花が薔薇にになったころから急激に薔薇栽培する方が増えてきました。 1985年から薔薇の無料配布が始まりました。 25年前の福山にはどれくらいの薔薇があるのか調査をしたら、当時約48万本でした。 そこから100万本に持って行こうという目標が出来ました。 福山市政施行100周年が100万本の一つのポイントになりました。 行政との協働の街つくりになって行きました。
僕が青年会議所に入った時に、先輩が中村金二さんのお孫さん(孝洋さん)でその影響を受け福山薔薇会に入ることになりました。 最初は薔薇を2,3年枯らしてしまいました。 薔薇の接ぎ木の講習会に行って、それが花を咲かせて感動しました。 薔薇にのめり込んでいきました。 愛情込めるだけ良い花を咲けせてくれます。 「心豊かなばら広場」という曲を子供達が自分たちで作詞作曲しています。 薔薇に対する情報発信を毎年やりたいと思います。 薔薇のエキスポを毎年開催したいという夢があります。