井上麻矢(劇団代表) ・娘から社長へ 父の思いを引き継ぐために
井上さんは1967年東京生まれ。 父親は日本を代表する劇作家で2010編に亡くなられた井上ひさしさん、母親は井上ひさしさんと劇団を立ち上げ、離婚されたのちは子守歌を通して、子供や女性たちを支える活動を続けている西舘好子(旧名)さん、お二人の三女です。 井上さんがフランスのパリに留学している時に両親が離婚することになり、学業の途中で帰国、その後は新聞社などに務め、結婚後は二人のお嬢さんに恵まれましたが、離婚、シングルマザーとして歩み始めました。 2009年に父親に誘われて劇団こまつ座の経理を担当、まもなくがんを告知された父親の跡を継いで代表取締役となり、現在に至っています。 また父親との会話を軸にご自身の社長としての歩みを記したエッセー 「夜中の電話 父・井上ひさし最後の言葉」の執筆ですとか、父親の戯曲「父と暮らせば」と対になる形で山田洋二さんが映画化した「母と暮らせば」の企画に携わるなど、活躍の場を広げています。
こまつ座40周年。 あっという間でした。 中学生のころから、活気のある、毎日がお祭り騒ぎみたいな、演劇の未来とか、文化を立ち上げるというか、皆が熱い気持ちになってというようなことを見ていました。 離婚が1986年でした。 当時私は日本には居ませんでした。
井上家は近所から不夜城と言われていました。 4社ぐらいが原稿を待っていました。 小さい時からいろんな人を見るのが楽しかったです。 長く取り組んでいた原稿が脱稿すると、学校があっても休んでみんなで出掛けたりしました。 母の車でひょっこりひょうたん島の音楽をかけてドライブしたり、樋口一葉の朗読を聞きながら行ったり、両親は私たちに刺激を与えてくれていました。 父とキャッチボールをしたり卓球をしたりして、家族中で父を楽しませていました。
父からは「何か自分の好きなものを見つけなさい」と言われました。 優しいところと、言葉使い、礼儀に関しては凄く怒られた記憶があります。 父は書斎にこもっているので、起きているのかどうか、わからなかったです。 1週間会わないという事はざらにありました。 私はお母さん子でした。 父は遠い感覚はずっとありました。 二人が同じ目的に向かって取り組んだからこそ、あそこまでできたんだと今さらながら思いますが、変わった親でしたが、今思うとかっこいい親だったと思います。
小さいころ(幼稚園)からお芝居は観ていました。 一番最初に父の本を読んだのは小学校4年生ぐらいでした。 高校生の時からフランス語の授業がありました。 中学2年の時にみたフランス映画「天井桟敷の人々」を観て一目ぼれして、自分の結婚する相手はフランス人だと勝手に思いました。 フランスに行きたいと思って留学しました。 言葉もマスターしてこれからという時に、親が離婚したというんですが、冗談だと思っていました。 夢を諦めて日本に戻って来ました。(20歳) 引きこもりみたいな状況が1年弱続きました。 長女がこまつ座の手伝いをしていました。 家は激変していて孤独感がありました。
ご飯も食べられない人間になってしまうかもしれないのでそれは避けたい、両親に対する反発もあって、無責任な大人にならないためには自分が経済力を持たないといけないと思いました。 誰にも頼らないで朝から晩まで働くようになりました。 新聞社に勤めているところで、出会って結婚し子供が二人出来ました。 仕事は続けていました。 その後離婚することになり二人を育ててゆくことになりました。 シングルマザーだと、当時は責任のある仕事はさせて貰えませんでした。 自分を評価するために資格を取ることをいろいろやりました。 一人親だからこれをさせてあげられないという事は、絶対言うまいと、それだけは心に決めて子育てをしていました。
父はそのころ新たな家庭をもっていました。 仕事も円熟期に入っていて、物凄く仕事をしていました。 「九条の会」にも入っていて、発起人としていろんなところに出かけて行っていました。 父と娘の関係はあまりしてはいなかったように思います。 作品を書いている作家としての父と、お父さんとしての父のギャップみたいなものがどうしても出てきてしまいます。 そのギャップに悩んだ時期もありました。
井上家のなかでトラブルが起きた時に、家長である父に報告の連絡をしていたら、「そんなことを押し付けて大変だったね、いつ君はそんなに大人になったのか」、と言われました。それからこまつ座に来てくれと言われました。 いったん断ったら、直談判に来ました。 「娘にかかったお金を全部清算するから、娘を返してください。」と言ったと、社長に聞きました。 正直心の底では嬉しかった、乖離した部分がちょっと近くなりました。 父は体調不良は感じていたのではないかと思います。 父の思いを受け取ることにしました。 その後父は亡くなりました。
人が居ないと演劇は出来なくて、演者さん、それを支えるスタッフの方々がいて、その後ろにはその人たちの生活があって、その期待に答えなくてはいけない。 その人たちの抱える問題もクリアしていかなければいけない。 人を大事にするとおのずとお金というのは後からついて来るというところが、最初はよくわからない。 この人たちによって支えられているという事が見えてくると、そのころはつらかったかなあと思います。 子供達からは客観視してズバズバ言ってくれました。 父はあの世に行っても、社長であり続けるんだなあと思いました。 私は便宜上社長をやっていますが、父の作品がこまつ座の真の社長なんだなあと思います。 井上ひさしの作品を愛してみんなが集まっててくれているんだなあと、やっぱり父なんだなあと思います。
40周年記念では3つ公演します。
「きらめく星座」は 或る浅草の小さなレコード屋さんの家族を中心に、家族がどんなふうに戦争に巻き込まれて行くのか、という事を書いたもので、6月半ばまでやります。 「闇に咲く花」 神社が戦争を境にして、若い人たちを戦争に送り出す役目を担うことになってしまった。 ある日、戦死したと思われた一人息子の健太郎が帰還。 日本の戦後という不確定な時代を問う物語は、わたしたちの現在に繋がれている。愚かな戦争によって死んだ者たちの声が、そのドラマから聞こえてくる。 戦争、宗教といったものをどう捉えて入ったらいいのか、という作品になっています。 「連鎖街のひとびと」 変ったコメディー。 戦争に負け、何とかして日本に帰ろうとする作家二人のちょっとした喜劇です。
舞台を映像に残してゆくという事業があり8Kで撮ってもらって、100年先までも見られるようにという事で行っています。