森村森鳳(同朋大学特任教授・親鸞研究家)・親鸞のこころに導かれ
森村さんは1956年中国吉林州旧満州の生まれ、青春時代を中国の文化大革命の時期に過ごしました。 この大動乱では多くの人が命を落としたといわれていて、森村さんにとっても青春時代の衝撃的な体験でした。 ごく普通の人がどこまで非情で残酷になれるのか、心の救いとなったのが作家野間宏さんを通じて知った親鸞の思想でした。 親鸞の心に導かれという事で、30年に及ぶ親鸞の研究に取り組んできました。
親鸞は「歎異抄」、「教行信証」という著作がある。 親鸞を知ったのは野間宏さんの文学を通してでした。 文学者たちは戦争体験を踏まえて、文学創作を始めました。 野間宏先生の父は親鸞を奉じて自ら浄土真宗の一派を建て、家で念仏道場を開き門徒を持ちました。 野間先生は幼いころから念仏を唱えて仏教を信じていました。 青年時代にマルクス主義に出会いました。 仏教、親鸞を否定しようとしました。 先生の自伝小説に、幼少時代から身についた仏教感覚と合理的な理性との格闘が描かれています。
私は文化大革命を体験した後、仏教に惹かれて仏教を学び続けました。 先生の本を中国語に翻訳して中国で出版されることをきっかけに先生と出会いました。 私に親鸞聖人の著作を送って来て、それをきっかけに親鸞聖人を学び始めました。 人が生きる意味とか、人間とは何かという問いかけが深められて、自分自身が今まで抱えている様々な問いかけが深められました。 自分が体験した文化大革命に対しても改めて問いかけられました。
日本語は最初父親に学びました。 代々漢方医の家で曽祖父は技術の高い名医でした。 父は漢方医でしたが、満州で日本が創立した医科大学で西洋医学を学びました。 病院を経営して周恩来首相に接見するチャンスも得ました。 文化大革命以前の時代に共産党にも入り、長春の市立病院で労働組合の主席に抜擢されたりしましたが、文化大革命で日本人との関係で糾弾されることになりました。 私は日本文学に関心がありました。 日本文学の翻訳に取り組みました。 最初は森村誠一の推理小説でした。 野間先生の「暗い絵」を翻訳してほしいとの話がありました。 野間先生は青年時代にマルクス主義に出会い、仏教、親鸞を否定しようとしました。 1960年代に環境破壊の危機に直面して、親鸞、仏教の大切さに気付き、著作などを通じて親鸞を伝え続けました。 私への手紙はがんに末期に最後に書いた手紙でした。 「歎異抄」、「教行信証」を中国語に翻訳しました。
文化大革命は10歳から20歳までの10年間でした。 古い文化を破壊する革命を起こしましたが、この革命は次第に暴力的になりエスカレートして行きました。 1966年8月6日女性紅衛兵6人が一人の女性教師を殴り殺して、文化大革命を悲惨な殺人悲劇に転換させる序幕となりました。 10日後そのリーダーは毛沢東に接見して、毛沢東は「暴力は必要だね。」と言いました。 武力が必要だという事が大々的に掲載され、暴力、殺人の悲劇は全国に広がって行った。 僅か一か月で紅衛兵の暴力で1万人ぐらいが命を失った。 二か月後私たちの住んでいる長春でも行われました。 知り合いの家に行っている時に紅衛兵が来て、そこのおじいさんの鼻が削ぎ落され、おばあさんが殴り殺されるのを目撃してしまいました。 私の家族も日本のスパイと疑われ糾弾されることになりました。 父は医者の資格をはく奪さて、肉体労働をさせられ、身体は傷だらけでした。 それは長い年月が経っても忘れられません。 父親は自殺を試み、今思い出しても辛いです。
私は学校ではスパイの子として虐められ、それを家で爆発させてしまいました。 「どうして私はこんな家に生まれたの。 革命家の家ならよかったのに。」と泣き叫びながら家を飛び出しました。 その時の父の顔は今も忘れられません。 父親を追い詰めた原因の一つともなりました。 私は文化大革命の被害者ではありますが、心の奥底では父親に対する加害者という複雑な痛みはずーっと私を苛み続けました。 文化大革命は人間の心の深い闇を見せつけました。 私自身の闇の深さをも思い知りました。 これがなかったなら、本当の意味での親鸞聖人との出会いはなかった思います。
文化大革命では加害者になったり、被害者になったりして生きてきました。 複雑な痛みを抱いた者同士は何をどうすればいいか、私にはわかりませんでした。 先に説明した事件の件ですが、2014年紅衛兵のリーダーが会合を開き、謝罪をしました。 そういった行為が一種のブームのようになりました。 自分の犯した罪を誤魔化さずに真摯に反省することは大切だと思います。 しかし、加害者が悪、被害者が善という対立があります。現実では紅衛兵たちの謝罪は被害者の家族から痛みや憎しみを呼び返して対立を深めてもいます。 人間は闇を抱えている限り、加害者になったり被害者になったりする存在です。親鸞聖人はそういう人間存在の本質をふまえて、すべての人間を悪人としてとらえて、善人も悪人も加害者も被害者も共に救われる道を求める様にと教えているのです。
文化大革命で数千年来築き上げた道徳倫理の規範が破られました。 そこから見られたのは恐ろしい赤裸々な人間の姿なのです。 おびただしい数の人間の死を目の当たりにしたことは、私の心の中に払拭できない影を残しました。 人間とは何か、人は何のために生きるのか、人間の尊厳というものはどのように保たれるのか、これからどうやって生きたらよいか、様々な問いかけがまといつきました。 親鸞上人と出会ってから、この問いかけが深められました。
親鸞聖人の「教行信証」は引用文が多いですね。 他力救済の新たな到達点を示していることを確認しました。 阿弥陀様に助けられるという他力です。 思想家としての親鸞を中国、世界の人々に紹介する事を自分の課題として定めました。 15年かけて、「教行信証」と「歎異抄」を中国語に翻訳しました。 「教行信証」は一つの書物ではなく生命体であると感じました。 親鸞聖人が、自分が出会った仏教の心理とその喜びを人々と共有しようという強い願いに心が打たれました。
「歎異抄」は日々親鸞聖人の教えを聞いた唯円が著した書物です。 「歎異抄」は親鸞思想の核心を音声言語に託して、よく伝えています。 「歎異抄」の後半は唯円の嘆きを伝えているけれども、前半は親鸞の思想の核心を音声言語に託して伝えています。
「信心歓喜」本願の核心にもにも基づいているものです。 異なりを讃歎するという翻訳を加えたのです。 元の翻訳に新しい翻訳を加えたという意味です。
「歎異抄」第三条 「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。 しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。」 (善人ですら往生をとげるのです。まして悪人が往生をとげられないことがありましょうか。 しかるに世間の人は常に、悪人すら往生するのだから、まして善人が往生しないことがあろうか、といっています。)
悪人の悪の意味は、仏教用語としての悪は、人間の心の奥の働きを表現す言葉です。 人間の心には二つあって一つは自我中心、それは欲望です。 もう一つは物事を善悪分類してみる生き方です。 この二つは相互関係して拡大してゆく傾向があります。 欲望の満足を求める人間は、自分の場を正義の場において欲望を正当化しようとします。 戦争を正当化します。 正義感に煽られた欲望は歯止めが利かなくなって、おびただしい数の人間が人間によって殺される。 人を殺したものに罪悪感がありません。 人間皆同じ心の奥に同じ闇を抱えているので、すべての人間を悪人としてとらえているのです。人間の悪としての絶対平等性という立場に立って、善人も悪人も加害者も被害者も、ともに救われる道を求めるようと、教えています。
仏教の根本は慈悲でしょう。 私たち人間はほかの生き物の命を奪って生きています。 動物たちもほかの命を奪わなければ、生きられません。 悲惨さを抱えて生の営みを行っています。 それに気づくことを仏教は大事にします。 他者と痛みを共有する感覚は育まれるわけです。 人間は自分に有利なものを善と言い、自分に不利なものを排除しようとします。 そこで、戦争、領土の拡大、を正義という大義名分で行われます。 人間は殺し合い、戦い合う歴史をたどって来ました。 親鸞聖人は悪人正機と言います。悪は仏教用語で闇とも言います。 人間の存在の本質を表す言葉です。 闇を抱えている人間を全て悪人としてとらえる。 その人間が悪としての絶対平等性という立場に立って、ともに救われる道を求めようと、教えていただいたのです。 親鸞聖人が自身の過酷な体験のなかで、人間存在の真実を見つめ、阿弥陀如来の本願の他力救済の真実の教えに出会ったからです。
自分の生が大いなる眼差しに包まれているという感覚、大いなる眼差しに私の闇が常に照らし出されます。 阿弥陀如来に見守られています。 人生の道は一人だけではありません。 支え合い、問いかけ合いながら生きてゆきます。