中尾ミエ(歌手・俳優) ・喜寿を迎えてますます元気に
1946年(昭和21年生まれ、1961年園まりさん伊東ゆかりさんと3人でスパーク3人娘を結成し人気者となります。 16歳の時に出した「可愛いベイビー」が大ヒット、一躍人気歌手、その後は歌は勿論映画、ドラマ、バラエティーなどマルチに活躍をされ、最近はミュージカルでアクロバットを披露し話題になりました。 芸能生活60年を超えた中尾ミエさんに伺いました。
いまが一番元気なんですよ。 喜寿(77歳)になりました。 福岡県小倉市生まれです。6人兄弟の4番目です。 書店を経営していたが、父が事業に失敗して東京に出てくることになりました。 習いごとに行かされてバレエ、ピアノ、タップをやっていました。 中学の時にオーディションを受ける事になりましたが、歌をやりたいという事を思っていたので、渡辺プロに紹介状を書いてもらう事になりました。 米軍キャンプではオーディションの前に歌っていました。 歌は好きでした。 15歳で社長のうちに住み込みとなり、高校はいかないことにしました。 国語以外は必要ないと思っていました。 自分の人生は凄くいいタイミングで生まれたと思っています。 自分の人生と戦後史がイコールという感じです。
歌手としてデビューして『シャボン玉ホリデー』、映画にも出演しました。 俳優の方が先で、そのころの新人賞が私と、加賀まりこさんと北大路 欣也さんでした。 器用貧乏で駄目だといわれましたが、でも身を助けてくれました。 目標があって20歳で家を建てることができました。(借金もありましたが) 借金をすることがモチベーションになっているというようなところもあります。 30歳になってから、勉強しないといけないと思って、勉強したり習い事をするようになりました。 一つなにかを始めると、思ってもみなかった出会いもあるし、思ってもみなかった自分の才能を見出すかも知れない。 トライしてみない事にはもったいないと思います。
人に助けてもらうのが上手いのかもしれません。 自分にかけている部分を誰かに補ってもらえれば、それは凄く楽だと思います。 逆に頼れると嬉しいものだし。 お互い様です。 昔NHKで「八百屋お七を取り巻く七人の男」というドラマをやりました。 一人に一つしか才能がない男の人でした。 おしらすで調べられた時に「私は七人みんな平等に愛しました。」という設定でした。 私の人生もこれで行こうと思いました。 いまだに実践しています。
やりたいことは自分で見つけなければ駄目ですね。 時間無駄なく達成するように毎日毎日生活する。 楽しみは自分で見つけないといけない。 志は死ぬ最後まで持っていないといけないと思います。 そのプロセスを楽しめればいいと思います。 ミュージカルでアクロバットをやれと言われてやったらできたわけです。 日々トレーニングをしていたら健康になってしまいました。 やれば出来るんだと思いました。 尾藤さんと二人で50年ぶりぐらいにロックンロールを歌うんです。 最終的に残るのはぐっとくる言葉だと思います。