宝井琴調(講談協会会長・講談師) ・講談の"定席"復活をめざして
宝井琴調さんは熊本市出身。 1974年、五代目宝井馬琴に入門、内弟子となり修業を積みました。 1985年真打昇進、1987年四代目宝井琴調を襲名しました。 2008年からは落語協会にも入会し、上野の鈴本演芸場で年末に開催される恒例の寄席の主任も務めています。 落語の定席で講談師が主任を任されるのは異例のことで、その柔らかな語り口は講談のみならず、ジャンルを超えて幅広く人気を集めています。 後進の育成にも力を入れて、夢は講談の定席を復活させることと語る琴調さんに伺いました。
子供のころはどちらかというとおしゃべりな方でした。 宝井馬琴に傾倒していきました。 風呂で聞いていて、「肉付きの面」というネタがあり、観世様は「この面には卑しい所がある」と言って面を投げつけ二つに割ってしまう。この話を聞いた源五郎は、自分の腕が鈍ったかとがっかりし自害してしまう。 倅が観世様い認めてもらうように頑張るという話ですが、この親父死ぬなと思って亡くなった時にお風呂が真っ赤に見えて、この馬琴という人は凄いと思いました。
高校2年の時に修学旅行で東京に来て、自由行動の時間に親戚の叔父が繋ぎを作ってくれて馬琴のお宅へ伺う事が出来ました。 会えればいいと思っていましたが、師匠は入門にきたと勘違いして、「高校ぐらい出てから来なさい」と言われて、高校卒業してから来ることになりました。 飛行機、新幹線もあったが、修行に行くものが何事かと言われて、急行「桜島」で23時間かかって行きました。 内弟子として住み込みで修業しました。 「三方ヶ原」の写本から始まり、80歳になっても見えるような大きな文字でかけといわれました。 今になってみるとなるほどと思いました。 軍記ものは声を作ります。
最初は30秒も聞いてくれませんでした。 師匠は短気な人でした。 「品位を崩すな、卑しくなるな」というのは、口を酸っぱくして言っていました。 明治36年生まれですから、叩き込まれていました。 「お前はなんで講釈師になったんだ。」と言われて、「師匠の芸に惚れまして。」と言ったら、「違う、こういう時は日本国をよくするためになったとい言え。」と言われてしないました。 世直しをしたくてしょうがなかった人です。
講談は幅が広いですね。 古典だけで4500あるようです。 神田松鯉さんが「講談とは男の美学である。」と言っていました。 講談というのは一人の人間の話術でお客様の頭のなかに、それぞれの映像を浮かび上がらせることができるというのが一番の魅力だと思います。 落語はホームドラマで、講談はドキュメンタリードラマだと、その切り口の違いだと思います。 同じネタもありますし。 十八番は自分で言ってはいけないと思います、お客様があの人の十八番はこれだというべきであって、自分で言う芸人は信用していません。
幕末には講談の専門の寄席が200軒あったらしいです。 上野広小路近くにあった本牧亭(ほんもくてい)が2011年に閉場してしまう。 お客様の入りが少なく、一日120円というのがありました。 1989年ごろ宝井 琴梅さんと二人で自転車で出前講談をしました。 北海道から沖縄まで行きました。 楽しみにして頂けるようになりこっちの自信にもなりました。 生の魅力でしょうね。 講談の絵本を5,6冊出すことが出来ました。(小学校5,6年生向き) 現代小説をやってみたいと思います。 ほとんどの講釈師が新しいものに挑戦していて、特に女性講釈師が女の美学を求めて、やっています。
もっと人前でしゃべる場所を作ってあげないと成長はあり得ないので、何とか場所を確保しようと思って動いています。 定席を復活させたいです。