ペペ桜井(ギター漫談家) ・〔わたし終いの極意〕 "一生懸命"はさりげなく
1935年東京新宿にある酒店の長男として生まれました。 10歳からクラシックギターを習い始め、ギタリストを夢見ていまいたが、友人の紹介で23歳の時に、演芸の舞台に立つようになりました。 10代のころに父親に買ってもらったギターは70年以上たった今も大切な相棒です。 今や寄席の宝とも言われるべきペペさんは、今年10月に88歳(米寿)を迎えますが、後輩芸人と共演し、新たな境地を開くなど挑戦を続けています。 現役で舞台に立ち続ける元気の秘訣や、ご自身の終いの極意などを伺います。
「禁じられた遊び」をギターで弾きながら、おしゃべりしたり、演歌を歌ったりする。 家に近所からもらったギターがありました。 弾いているうちにもう少し上手くなりたいと思って、近所にいたギターの先生ところでギターを習い始めました。 NHKでオーディション番組があり、そこに合格してしまいました。(17,8歳) 30分番組のラジオで10分ぐらいの枠で弾くことになりました。 将来は音楽家の道に進もうと思いました。 ピアノも買ってもらって習いました。 ジョン・ウイリアムズが日本に来て、ギターの先生と一緒に聞きに行きました。 その帰りに私の友達が日劇に出ていて、寄りました。 その時に欠員が出ていて、ギターが弾けるのなら入らないかと勧めてくれて、お願いすることにしました。
パン猪狩さん、早野凡平さんと私の3人でコントをやりました。 そのうちに仕事がなくなってきてしまい、解散することになりましたが、そこに別の人が入って来ましたが、それも解散となり、先輩と組むことになり10年ぐらいやっていました。 ウクレレ漫談の牧伸二さんと知り合いになり、うちの事務所に入らないかと誘ってくれました。 おおきな劇場とかテレビにも出してもらえるようになりました。 その後仕事がなくなって、ストリップ劇場の支配人に泣きつき、そこで1年ぐらいやりました。 最初、一人でやったことはないので緊張してしまい20分の持ち時間を5分で降りてしました。
ペペ桜井という名前は、日劇で演じていたころ、芸名は、小田切トシカズという名前で出ていたのが、「ペペ桜井」でどうかと勝手につけられてしまい、それからはこれが芸名になりました。 「ペペ」は日本では太郎さんとかいっぱいある名前なんです。 当時は片仮名の名前がいっぱいありました。(フランク永井とか) 芸歴は60年を越えました。
古今亭圓菊師匠と知り合いになり、寄席に出させてもらえるようになりました。 いい加減に見えて一生懸命やっている、これが芸じゃないかと思います。 以前はそういったことが判らず一生懸命になってつい怒鳴るようなしゃべりになってしまう。 芸人というものは運がないと駄目ですね。 人と会えたという事が一番の幸せですね。
ギターを弾きながらおしゃべりすることは、早野凡平さんからアドバイスがあり、やってみましたが、半年ぐらいは全然受けなかった。 或る時こうやったらどうだろうと思ってやったら、受けました、これが今のやり方です。 ハーモニカを吹きながら歌う、というのもこの延長線上にあります。
柳亭こみちさんと言う女性の落語家がいて、ピアノが弾けるという事で誘って、やり始めました。 結構受けました。 おもちゃのピアノで弾くものだから本格的ではなく、どうせおふざけでやるだろうとお客さんは思っているわけです。 ちゃんとしたリズムで弾くとインパクトが強いわけです。 またやりたいということで計画は立てています。
ギターはスウェーデン製のギターを父が買ってくれてもう70年ぐらいになります。 仕事がなくなって独りでギターを弾いたり、ピアノを弾いたりして、これが終活の一番理想的じゃないですかね。 「人生諦めが肝腎、でも諦めないよ」、というのが自分の生きざまとしては人生訓です。 意欲があればなんとかなるが、意欲がなくなったらもうおしまいでしょうね。