2023年6月24日土曜日

長谷川逸子(建築家)          ・〔私の人生手帖〕

 長谷川逸子(建築家)          ・〔私の人生手帖〕

長谷川さんは日本の公共建築の先駆けとして、多くの建築を手掛けてきました。  1941年静岡県生まれ。  建築設計事務所、東京工業大学の研究室を経て1979年に独立、その後1986年には静岡眉山ホールの設計で日本建築学会作品賞、同じ年に神奈川県藤沢市の劇場やプラネタリュームが入る湘南台文化センターの公開設計コンペティションで女性として初めて最優秀賞を受賞し、注目を集めました。  海外でも知名度は高く2018年には歴史あるイギリスの第一回ロイヤル・アカデミー建築賞を受賞しました。  女性の建築家の先駆けとしてどのような人生を歩んできたのかを伺うとともに、建築と第二の自然の融合がテーマという長谷川さんの公共建築の基本的な考え方、コンセプトを中心にお話を伺います

ヨーロッパのいろんな街の若者が,私の初期の小住宅を10軒ぐらい作ったんですが、その小住宅を研究する若者がヨーロッパにいっぱいいて、ポルトガルの人達とかが東工大に来てk柿生の家というのを一つ取り上げてレクチャーしている。  私の小住宅に興味を持っています。  ヨーロッパではなかなか新しい家を作るチャンスはなくて、リフォームをすることが多いんです。  質問攻めが多かったので、逆に勉強になりました。  

住宅を設計しているときには木造が多かった。    日本の若い建築家の女性は住宅から出発している人はたくさんいます。   世界で日本が一番多いかもしれない。      湘南台文化センター、銀色の地球儀のような形。   快適、居心地がいいというのはどういう時かというと、自然と向き合う状況が凄く心地いいわけです。  自然の要素に包まれている建築って、ずーっと作りたいと思っていて、公共建築が来たら作りたいと思っていました。  公共建築は大御所ばっかりでした。  ほとんど原っぱにしようと思って90%近く地下にしました。  回りからの意見もあり地上を30%ぐらいにしました。    地下は辞めてくださいという住民、おじいさんおばさんは多かったです。

第二の自然というテーマ、良い空気とか心地よさは街に広がって行くような建築を作りたいと思ってずっとやって来ました。  そこからずっと公共建築を沢山やって来ました。   新潟まではそのテーマは崩さなかった。  新潟は市民の反対が多かった。  いい企画をすれば、絶対市民は来てくれると思って、狂言の萬斎さんとか、海外のウイーン、ベルリン交響楽団が新潟にも来てくれるように交渉もしました。  

高校1年生の時には油絵に夢中になっていました。 芸大を目指そうと思ったが、2年生になって建築家のことも知って建築家を目指すことにしました。  女子校で学校としては工学部にはいかせないという事でした。  京都国際会議場の模型の手伝いを依頼され、設計事務所に行きました。  その時には2番でした。  関東学院大学工学部建築学科入学して1年、2年はヨットに夢中になってやっていました。  菊竹清訓事務所に行き5年間学びました。  公共建築でも私は家具を自分で設計します。  植物も自分で選びました。   仕事が大変で38kg迄痩せてしまって、設計事務所を辞めることにしました。     その後東京工業大学の篠原一男研究室に研究生として所属することになりました。    篠原研究室に在籍中に住宅設計の手伝いをする傍ら、知人から注文を受け個人としても設計を行っていました。  

1979年に38歳のときに自由が丘に「長谷川逸子・建築計画工房」を設立しました。  最初、四国の小児科の建物をやった時にはすごくいじめられました。  大手施工会社から町の工務店に変ってから、施工してくれる人に恵まれました。 その先に湘南台文化センターの建築から公共建築のコンペに参加して、勝って新潟までやって来ました。

公共建築は市役所などから、どういったものを作りたいと概要を出すわけです。     私は直ぐ現地を見に行きます。  どんな歴史の敷地なのか、調べます。  私がファーストイメージをスケッチして、みんなの意見を聞いて修正したりします。 それを纏めてコンペに出します。  言葉をぶつけられるのは楽しいです。  快適、心地よいというものも言葉にできなかったら、伝わらない。  建築は生の自然ではないが、建物を取り巻く環境もできるだけ自然に近づけることによって、開口を決めたり、空気の通り道を決めたり作るんです、それが第二の自然という事です。 その象徴が原っぱだったりします。     子供のころから原っぱは自由に遊べる場所だという思いがあるから。  

本を読む機会がなく、東工大に行った10年は本を読む10年でした。 あらゆる分野の本を読みました。  生活をするための場所であり、人生を引き継いでいった貰うための持続する空間でもあり、コミュニケーションの場所でもあります。  街全体の環境にも影響を及ぼすし、いろんなことが詰め込まれて成立しているんです。  学園闘争があった時に民家を見て歩こうと思って、青森から沖縄まで出かけました。 その土地土地によって凄く違うものです。   民家の原点は多目的に使われるように出来ているんです。  プライバシーの考え方が入って来て、でも日本では子供部屋だけなんですね。  それが間違っていたんじゃないかと思います。

2018年ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツによる、第1回ロイヤル・アカデミー建築賞を受賞しましたが、建築分野では一人だけでした。   仕事が面白いから続けてきたんですね。  20年ぐらい外国で活動してきて、良い人にいっぱい恵まれて外国で楽しみました。