2023年6月26日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕 坂本龍馬

頭木弘樹(文学紹介者)         ・〔絶望名言〕  坂本龍馬

坂本竜馬は天保6年高知城下に生まれ、慶応3年京都で刺客に襲われて亡くなるまで、新しい日本を作り上げるために存分に活躍した幕末の志士として多くの人々に愛されています。  

「さてもさても人間の人世は合点のいかぬはもとよりのこと、運の悪いものは風呂より出んとして金玉をつめわりて死ぬるものもある。」     坂本龍馬  

薩長同盟、大政奉還などに大きな功績があったとされる。 日本で最初の商社ともいわれている「亀山社中」、「海援隊」を結成して、船で世界へ乗り出そうとした人物でもあります。  坂本龍馬は絶望的なことは言っていないんです。    以前、ゲーテを紹介した時にも、ゲーテは希望に満ちた言葉を語っています。  単にポジティブではなく、絶望に裏打ちされている。   坂本龍馬も同じようなところがある。

手紙の中で龍馬が最も多く使っている表現は、おそらく「図らずも」だろうといっています。  「図らずも」というのは、思いがけず、予想外、とかの意味ですが、人生は思った通りにはならない、思いがけないことが起きるという人生観を持っていたことは凄くおもしろいと思います。    ゲーテも「望んで叶う事なら努力に値しない。」と言っている。      やってもできないことだからこそ、頑張る。 坂本龍馬もそういう思いだったと思います。

冒頭の言葉も「図らずも」という考え方が感じられる。  冒頭の言葉は文久3年3月20日坂本乙女(龍馬の姉)宛ての手紙の一節です。                      「人の一生は納得のいくように説明できるものではないけれども、時には風呂から出ようとして、急所をぶつけて死んでしまう事もある。」という意味です。  脱藩一年後で勝海舟の元でやる気に満ちていた時期に送った手紙です。  その後の坂本龍馬の人生は思いがけないことの連続です。  余り挫折はしないが、根底には思い通りにならなくて当たり前といという事があったからだと思います。 

事実とは異なる伝説でもより真実を伝えている面がある、と言う事はあると思います。 龍馬を尊敬していた同志が、龍馬が赤い鞘(さや)の長い刀を差していたので、自分も手に入れた。 その時には龍馬は短い刀を差していた、その方が実践向きだという事だった。   同志は慌てて短い刀を手に入れる。  そのころは龍馬はピストルを手に入れていた。  同志は苦労してようやく手に入れた。  龍馬は武力よりも万国公法(国際法の解説書)が大切だと思って、熱心に読んだ。  こういった話があるが、全くの作り話です。     逸話自体はフィクションですが、坂本龍馬が新しい時代に向かってどんどん変化していった人物であるという事は短くおもしろく伝えているわけです。

「私を決して長くあると思し召しは、やくたいにて候。」   坂本龍馬         文久3年6月29日坂本乙女(龍馬の姉)宛ての手紙の一節です。  

「私が長生きするとは決して思わないでください。  そんなことを思っていると、あてが外れます。」というような意味です。    この時には周りからの評価も高くなり、200,300人は動かせるようになっていた。   この手紙には「日本をもう一度洗濯いたし申し候」という有名な言葉も書かれている。   人生は思い通りにならないという思いと、それでも大きなことを成し遂げようとする思いと、が一体になっている、それが魅力です。  

「かの南町の乳母はどうしているやら。 時々気遣い申し候。 最早風寒くあいなり候から、なにとぞ綿のものをお使わし、私どうも百里外、心に任せ申さず気遣いおり候。」   坂本龍馬  慶応元年9月7日 坂本権平(龍馬の兄) 乙女 おやべ(姪春猪の別称)宛ての手紙の一節。

「乳母はどうしているだろうと、折々に気にかかります。   風は冷たくなってきましたから、どうか乳母に大変温かい着物をあげてください。 私は遠くにいるのでどうしてあげようもなく、気になっています。」

龍馬は母親を10歳の時に亡くして、姉の乙女が母親代わりとなり面倒を見た。     乳母のことも凄く気遣っている。  

「私がお国の人を気遣うは、私の乳母のことにて時々人に言い、このごろは又乳母が出たと笑われ候。」   こういう優しさも龍馬の特徴だと思います。 

龍馬は慶応元年9月9日の坂本乙女、おやべ宛ての手紙の中で、おりょう(楢崎 龍のことを詳しく書いてある。  おりょうの父は医者だったが、亡くなって一家は貧しくなって、16歳の妹が母親が騙されて売られてしまう。   それを知った23歳のおりょうは刃物を懐に悪い奴らのところに乗り込んでゆく。  悪い奴らは刺青を見せて脅かすが、向かって言って何度もたたく。  「殺すなら殺せ」といって、最後には妹を取り返した。   そのことを「誠に面白き女にて・・・」と書いている。 翌年寺田屋事件が起きるが、おりょうはいち早く知らせ、薩摩藩邸にも行く。 このことを手紙に書いていて「この良女がおればこそ龍馬の命は助かりたり」  千葉道場の千葉さな子(佐奈) 14歳で北辰一刀流免許皆伝 美貌で知られ、「千葉の鬼小町」と呼ばれていた。  恋愛関係にあった。  おりょうは龍馬以外からが気が強くて嫌われていたようです。  

「世の中のことは月と雲、実にどうなるものやら知らず、おかしきものなり。 うちによりてみそよ薪よ、年の暮れは米受け取りを等よりは、天下の器は実におおざっぱなものになりて、命さえ捨てれば、面白きことなり。」    坂本龍馬  慶応2年12月4日 坂本乙女宛の手紙の一節。 

「世の中のことは月と雲、どのように変化するか予想がつきません。  おかしなものですね。   土佐の家にいて味噌が切れそうだとか、薪を割らねばとか、年末の米の受け取りをどうするか、とか家族の世話をこまごまするのに比べたら、天下国家の世話をするのはおおざっぱな事です。  命さえ捨てて掛かれば、面白いものです。」

山田太一の早春スケッチブックの中にこういうセリフがあります。 「人間は給料の高を気にしたり、電車が空いていて喜んだりするだけの存在だよね。 偉大という言葉が似合う人生もある。」   「こまごまと心配して行くことが生活してゆくことだ。  ありきたりだろうと何だろうと三度三度の飯を作り、金を数え、掃除をし、着るものの心配をしていかなきゃ子供なんて育つもんじゃない。」  

龍馬が傷を負っておりょうと傷を癒すために温泉巡りをする。(新婚旅行)  「命さえ捨てて掛かれば、面白いものです。」というのは本当は命を落としかけた後で言っている。

「人心今日や昨日と変わる世に一人嘆きの増すかがみかな。」  坂本龍馬       「世の人は我をなにとも言わば言え我が成すことは我のみぞ知る」 坂本龍馬       「うきことをひとりあかしの旅枕磯打つ波も哀れとぞ聞く」    坂本龍馬       

「拝啓 おん事も今しばらく命をお大事になされたく、実はなすべきの時は今にて御座候。  やがて方向を定め、修羅か極楽かにお供なすべき存じ奉り候。」  坂本龍馬   慶応3年11月11日  林謙三(後に海軍中将になった人)宛ての手紙の一節

「貴方も今しばらくは命を大事になさってください。 実は今こそ行動を起こすべき時です。 進むべき方向を見定めて、修羅か極楽かにお供する。」 龍馬が暗殺される4日前の手紙です。   暗殺されたのが慶応3年11月15日 (31歳) 誰が犯人なのかいまだに諸説ある。  大政奉還から一か月後。  同年12月9日に王政復古の大号令がある。  翌年が明治元年。  生きていても新政府の高官になることはなかったようです。龍馬のその後は他人には想像が出来ない。 

仲の良かった姪春猪への手紙の一節

「これから先のお前の人生には、いろんな心配事が起きてくるだろう。 それは塵取りでかき集めて捨てるわけにはいかない。  鍬や鎌で払いのけることもできない。  精一杯頑張って長い年月を生きてゆく。  私ももし死ななかったら、4,5年の内には土佐に帰るかもしれない。  だけど露の命は測られず。   朝の草の葉についた朝露の様にいつ消えてしまうかわからない。」  

「これから先の心配心配、塵取りにいても搔きのけられず、鎌でも鍬でも払われず、随分随分精出して長いお年を送りなよ。 私ももしも死ななんだらにゃ4,5年の内には帰るかも。  露の命は測られず。」   坂本龍馬

*原文は正しく記載されていない可能性があります。