2023年8月16日水曜日

山中正竹(全日本野球協会会長)     ・すべては野球が教えてくれた

山中正竹(全日本野球協会会長)     ・すべては野球が教えてくれた 

昭和22年大分県生まれ。 大分県立佐伯鶴城高等学校から法政大学に進み、左腕のエースとして活躍、東京野球大学史上最多の48勝の大記録を打ち立てます。   卒業後は住友金属に入社、選手、監督としてそれぞれ都市対抗野球大会で優勝、監督としては社会人野球日本選手権2連覇も果たしました。   さらに日本代表のコーチ、監督としてソウル、バロセロナのオリンピックでメダルを獲得、法政大学野球部監督を務めてリーグ優勝が7回、選手時代に続いて監督としても全日本大学野球選手権の優勝を成し遂げています。  その後はプロ野球横浜ベイスターズの役員などを経て、サムライジャパン強化委員会本部長として稲葉ジャパンの東京オリンピックの金メダルを支えました。  2016年に野球殿堂入り、現在は全日本野球協会の会長、アジア野球連盟副会長を務めています。 

3月のWBCの優勝で、未だに野球の盛り上がりが続いている感じです。 WBCからいろんなことを教わりました。  野球のすばらしさを改めて感じていただいて、野球に関心を持つ方が増えました。   栗山監督を始め、選手の人たちの発言、行動や発言している内容の意味の高さとか、技術のレベル、知識のレベルの高さを感じさせてくれるような発言等がありました。   私は「品知技」という言葉を使っていますが、品性、知性、技術の3つの要素が、あのWBCから見事に発信されて、これから日本の野球の進むべき道をWBCが教えてくれたなと、あるいはそういう方向で行こうよと示したと思います。  「品知技」を高めて行く、それが野球の進化であり、これからも我々が追及してゆくんだという事をWBCのチームが私たちに教えてくれた。  

祖父からグラブを買ってもらって、それから野球をスタートし楽しくなって行きました。  上手くなりたい、勝ちたいというのがずーっと続いていきました。    決勝までは行きましたが、甲子園に行く機会はありませんでした。  中学時代に大学野球を意識させてくれたのが早慶6連戦でした。(昭和35年) できればああいうところでやりたいという風に思ったのが大学野球へのスタートです。  法政大学に進みました。 同級生で江本孟紀投手がいて有名でした。  一年先輩の田淵幸一捕手山本浩司外野手富田勝三塁手「法政三羽ガラス」がいました。  48勝しましたが、8シーズンのうち優勝は3回です。  他校にも凄い選手がいっぱいいました。  東大以外は各学校が優勝しています。  

初めて登板したのが1年生の春の大会で、途中からメンバーに入りました。  明治とやって完投負けしました。  9回から投げて、敗戦処理としてスタートしました。 その1イニングは抑えることが出来ました。  最後のカードが東大戦で、急遽登板して1-0の僅差で勝ちました。  翌日も途中から出て僅差で勝ち1年生の春の最後で2勝しました。    監督から「1年生で勝ってもすぐに追い抜かれてしまう。」というような意味合いのことを言われて、「よし、俺は4年間頑張り続けてやろう。」と思いました。  素質があったわけでもなく、身体があったわけでもない、飛び切り負けず嫌いではありました。   どうしたら抑えられるか、バッターの研究をしたり、田渕さんと話したり、いろいろな本を読んだりしました。  こうしたほうがいいんだと自分が感じたりしたら、それを徹底的にやってやろうと思いました。(根性)  

負けず嫌いと、考える事と、根性(新根性)が俺には有ったんだと思います。  根性は目標に向かって粘り強く築き上げてゆく精神性で、大事な人的要素だと思います。  それを若い人たちに求めたいと思います。  科学的に裏つけられた理論を完成させるためには、泥臭い積み重ねは必要だと思います。   1984年ロサンゼルス、88年ソウル、92年からオリンピックの正式種目になる。  世界を意識する様になったのは1980年に、世界アマチュア野球選手権大会が日本で開催されました。  準決勝を観ていました。  キューバの選手は日本とは格が違う感じがしました。   キューバの野球を学びました。  その時に私たちは日本代表チームにいて、学びました。   「知学慣等越」 知って、学んで、相手にも慣れ、対等の等、最後は越える、この5つをキューバを意識して、30年かかってキューバを越えるようになってきた。(2000年以降)

「目からうろこを落とす」そういったことを、何度でも体験したい。 キューバの野球を観た時にはそう思いました。   アメリカの大学スポーツはどういうシステムになっているのか、野球人口の少ない韓国、台湾ではどうしてあんなに強いのか、とかいろいろ思いました。 海外の他の種目のスポーツにも関心を持たなくてはいけなくなる。  監督時代の考えなどを組織運営するときに生かさなければいけないという立場にあると思ってやっています。  野球は私の人生を豊かにしてくれる、私にとって大きなツールであると思います。  際限なく課題を与えてくれて、次から次に勉強しろよと言ってくれます。  仲間がどんどん増えて、世界にも増えてゆく。 

稲葉監督が率いたサムライジャパンがオリンピックで金メダルを取る。  大学野球の監督の時に100人を超える部員がいました。  彼らを「仲間」と呼んでいます。   私が伝える事よりも、彼らから教わる方が多い。  そのなかの一人が稲葉でした。  プロ野球に入って、野村監督、栗山監督らと接していって、指導者としての勉強を彼はしていったと思います。  私が思っていたよりもはるかに高い指導者になって行きました。  残念ながら無観客のオリンピックでした。   でもやっていることは凄かった。  監督としてコミュニケーション能力、共感力を稲葉監督に感じました。   信頼関係がないと組織としてうまく進んでいかない。  私らにはない共感力を感じました。(令和の監督)    野球が私の人生を豊かにしてくれた。  野球は学ぶ事の楽しさを教えてくれた。  野球以外の人たちとも知り合え、世界中に仲間が増えて行った。  野球は最高級の遊びだと思います。  真剣にやると得るもの、学びが多い。  こんなことをしたらうまくなるとか、上手くなるためにはどうしたらいいのだろうかとか、という事を自分で考えてゆくことの楽しさを追求していったら、面白いですよと言いたいです。