田沼敦子(歯科医師・料理研究家) ・〔わが心の人〕 田沼武能
田沼武能さんは昭和4年東京浅草の生まれ。 写真家として世界の人々や風景を取材してカメラに納めました。 特にユニセフ親善大使となった黒柳徹子さんの旅に同行し、世界中の子供達を撮り続けたことで知られています。2022年6月1日に亡くなりました。(93歳)
昨年1月も撮影に出掛けていました。 その時圧迫骨折をして2月になってから自宅で療養していました。 良くなってきて散歩するようになって、亡くなる2日前にも写真審査に出掛けました。 亡くなる当日も原稿の校正をしていて、私が出かけて帰宅した時にはすでに冷たくなっていました。 朝出掛ける時と同じいい顔をしていて、それが救われたような気がします。 6月1日は写真の日でもあり彼らしくかっこいいと思いました。 写真を集めて去年に秋から、母校の東京工芸大学で追悼写真展が開かれました。 6月初めから没後1年という事で東京写真美術館で回顧展が開かれました。
結婚は田沼武能さんが51歳、年齢差は24歳。 住んでいるところと仕事場が片道50kmでしたので、大変でした。 結婚後も海外に半年ぐらい出掛けていました。 一回がひと月ぐらいでした。 日本写真家協会の会長も20年間務めていました。 ユニセフ親善大使となった黒柳徹子さんの旅に同行し、世界中の子供達を撮り続けたことで知られています。 黒柳さんとは70年ぐらいの親交がありました。 彼女が大使になって35年間同行しています。 アフリカの難民の子にカメラを向けると、いい顔をしてくれるといっていました。
歯科医師として嚙む回数がいいという事を提唱しています。 二人子供がいますが、幼稚園のころから30年ぐらいはお弁当を作っていました。 夫が朝早く撮影に行く時などは同行者の分を含めて3,4人分は作りました。 子供達の弁当は毎日自分で写真を撮るようになりました。外食は主人が好きではなかったことなので、外食はしませんでした。 家族写真は年に2回は撮るようにしていました。(正月と夏) カメラは散歩に行く時でも必ず持っていました。 もともとは報道写真家でした。
一番すごいと思ったのは、或る程度編集が進んで、見本誌が出来た時には次のことを考えているんです。 次の企画のレイアウトとか自分の中にできているんです。 写真家の撮ったものがなくなってしまう事を懸念して、長い年月掛かりましたが、日本写真保存センター、日本著作権協会を作って、写真保存に関する事にも非常に関心を寄せていました。
朝4時ごろ出掛けて、元日の日の出の撮影が終わって8時~10時ぐらいには家に帰って来て、お風呂に入ってからおせちをいただくう感じでした。 主人は料理もやるし、洋服も自分で選びました。洋服、帽子も物凄くありました。 感性、価値観は結婚当初から変わらなかったです。 喧嘩することもなかったです。 最初のころは短気でしたが、丸くなって面白くなりました。海外旅行はほとんど一緒にという事はなかったです。 或る番組ではスペインのカタロニアに一緒に行くことが出来ました。(懐かしい方との再会の番組) 結婚して36年目にフランスで写真展が開かれてテーマが「日本」という事で、主人の写真も招待されましたが、骨折で行けませんでした。 その後夫婦と次男の3人で行くことが出来ました。 36年前に撮った場所で改めて写真を織ることが出来て嬉しかったです。(80代半ば)
絶えず自分で自分を鼓舞させて、目標に向かって凄く努力する人でした。 1年経って私が思っている以上に凄かったと改めて感じました。 『ライフ』との契約写真家として活動していたので、絶えず世界のニュースに気を配っていました。
結婚生活は42年間になります。 後悔はないです、感謝の気持ちの方が強いです。 顔写真を見ることはまだ出来ないです。 絶えず好奇心のある人でした。 もっといい写真が撮りたいと常に言っていました。 食事もしっかり食べていて、お肉など私の倍は食べていました。 見てくれがだらしないという事は嫌がりました。 若い人の写真展にも忙しい中良く足を運んで励ましていました。 主人の本とかを纏められたらいいかなあと思っています。