西川きよし(漫才師) ・笑いで幸せを届けたい ~芸能生活60年を迎えて~後編
中学卒業後、大阪の自動車工場で働いていたきよしさんは怪我をきっかけに人を笑わせる仕事をと喜劇の世界に飛び込みました。 役者として歩み始めたきよしさんに、コンビを組もうと声をかけたのが横山やすしさん、きよしさんが19歳の時でした。 戸惑いながらも万歳をはじめたきよしさんは、紆余曲折を経てやすしさんと独自の万歳を作り上げ大人気となります。 やすしさんとの日々を振り返りながら、今なお舞台に立ち続けるきよしさんが追い続ける笑いの世界を伺いました。
昭和41年6月1日に京都の映画館だったものを演芸場にしました。 やすしさんが疲れている時にはまずやすしさんを楽屋で一対一で笑わせるんです。 そっと客席を見てどんなお客さんが来ているか、やすしさんに報告します。 5年、7年と親しくなっていって、そうなるほど万歳は面白いです。 男同士のコンビは計り知れない愛情を感じます。 野球のネタ、やすしさんは野球が大嫌いなんです。(団体競技が嫌い、競艇をやるんです。) 知っているのが盗塁とキャッチボールとシートノックぐらいしか知らない。 舞台を終えて戻ってくると高校野球をやっていて、チャンネルを変えると明石家さんまさんが戻してほしいと懇願すると仕方なく戻すんです。 日本中で高校野球に熱中しているので、野球のネタを作りましょうと言ったら、「アホなこと言うな、ワシは野球は大嫌いだ。」と言いましたが、作ったんです。 「リー、リー、リー」から「シートノック」など作りました。 最初5,6分のネタが前進座で40,50分やりました。
やすしさんが事件があった時には「戻ってこない」と言われて、「岡八郎と新しくコンビを組んでやったらどうか」と言われました。 「やすしさんが戻ってくるまで待ちます。」と言いました。 半年ぐらいして、うちの会社の会長が「ぼつぼつどないや。」と言ってきました。 やすしさんと新ネタを作ってやりました。 以外にやすしさんは緊張していました。 遠慮してしまって、そうなるとネタ自体が駄目になってしまう。 先に自分が独りで出て挨拶をして、やすしさんを拍手で迎えるという事にしてやりました。照れながら出てきてやりました。 昭和45年12月2日のことでした。 ボケと突っ込みを入れかえようという事になりました。 ボケ役にやすしさんは喜びました。 二人ともボケと突っ込みが出来るわけです。 縦横無尽にやることが出来ました。 これは本当にありがたいことだと思いました。 やすしさんは稽古が苦手でしたが、双方で10分ぐらいのネタを考えてきて、稽古を40回、50回やりました。 30回を超える頃からアドリブが出来るようになります。 そうなるとコンビが仲良くなるんです。 自信をもって舞台に出られるんです。 大成功していきました。
競艇にどうしても出させてほしいと言われて、交通渋滞という事である番組には出られないという事で一芝居うってしのぎましたが、翌朝のスポーツ新聞には「横山やすし優勝」の記事が載っていました。 横山やすしさんのような芸人は二人と出てくることはないでしょう。 夢路いとし,喜味こいしのこいし先生が「やっちゃんはいつも一番とは言わずに、2番手をずーっと守ってゆくのがいかに大切かという事を勉強せなあかん。」といつも言われました。 「1番になったらあとは2番、3番にしかならん。 2番なら1番に行けるが、3番にはならんように気を付けようとする。 ネタつくりも変わってくる。」と言われました。 「2番に選んでもらえるようになると息の長い芸人になれると俺は思うよ。」と言われました。
文化功労書を頂き万歳が文化と認められましたが、やすしさんと一緒に受賞したかったです。 やすしさんは触れられるのが嫌いでしたが、洋服からネクタイと徐々に徐々に触れて行きましたが、やすしさんの頭に触れた時には、物凄い勇気がいりました。 怒らなかったです。 やすしさんは内ポケットに入れてあった櫛で直しました。(アドリブ) 信頼関係があったればこそだと思います。 やすしさんを失った喪失感は大きいです。 毎朝仏壇に話しかけて過ごして過ごしています。