2023年8月12日土曜日

神村朋佳(大阪樟蔭女子大学講師)    ・国策紙芝居は何を伝えたか

神村朋佳(大阪樟蔭女子大学講師)    ・国策紙芝居は何を伝えたか 

国策紙芝居は国民の戦意高揚を目的に作られた紙芝居のことで、昭和12年の日中戦争開戦から昭和20年の太平洋戦争終戦までの間に大量に製作されました。  しかし、その多くが終戦直後に処分された為全容は分かっていません。  そんな戦時中の紙芝居数点が2014年京都市の福知山市内で見つかり、児童文学を研究する神村さんがその紙芝居を託され、調査分析を続けてきました。  国策紙芝居はどのような内容で、どのようの国民の戦意を高揚させようとしたのか、神村さんに伺いました。

国策紙芝居というのは、戦時中に国の政策に沿った形で、戦意高揚の内容を盛り込んだ紙芝居のことで、昭和12年の日中戦争開戦から昭和20年の太平洋戦争終戦までの間に大量に製作されました。  街頭紙芝居は紙の人形を立てて見せる芝居でした。   昭和5年頃平たい一枚の紙に絵を描いて、それを重ねて見せて、紙を引き抜く形式のものが生まれました。   飴などを販売するための客寄せとして使われました。   人を惹きつける力があるならばという事で、キリスト教の伝道(今井よねさん)に使い始めました。     子供たちの教育にも使えるという事で様々なところで活用が始まって行きます。     演じ手が或る程度語る事の自由が許されていた。 

福知山市内で見つかった紙芝居の一つ「ねずみの嫁入り」。               日本教育紙芝居協会と書いてあります。    日本では良く知られた昔話の一つです。 ストーリーは、ねずみの村の村長さんの家にかわいらしい娘がいます。   偉い人の婿探しを始めます。   太陽より、雲、風、壁(の順に強いと言うが)、壁はネズミにかじられてはたまらないと言います。  結局幸せは身近なところにあるというお話です。   でもこの紙芝居には続きがあります。   ねずみのなかではいったい誰がいいかという事が問題になります。   自分がさらわれたことにして、一番勇気のある、忠義な人を捜そうという事になります。   貧しい家の忠助が名乗り出ます。  「何事も一心になって命を投げだしてかかれば、きっとできないことはございますまい。」と言います。    救出しようとするところを、娘さんが出てきて、「実は嘘だったんです。」といって、「命を惜しまない忠助と結婚したい。」と言います。  最後は娘はモンペ姿、忠助は国民服姿で婚礼の絵が描かれている。   命を惜しまない、倹約の精神が付け加えられている。

昭和12年に日中戦争がはじまります。  皆が国の戦争に協力してゆくという事が、国の方針として示されてゆく。  昭和13年国家総動員法が制定される。  同年日本教育紙芝居協会が設立される。  教員だった松永健哉と言う人が教育に紙芝居を取り入れたいという運動を始めます。   日本教育紙芝居協会という団体を作ります。 多くは学校の先生だったと言われる。   紙芝居でもって国策に協力ししようという方針になってゆく。 色々な政党、労働組合などあるが、それを一つにして挙国一致体制にしてゆくという動きが出てくる。(新体制)     政党は大政翼賛会という会になってゆく。  児童文化についても一つの児童文化団体を作ろうという動きになってゆく。  昭和16年12月太平洋戦争が始まる。  最初は児童文化協会という会を作ろうとしていたが、小国民文化協会という名前になりました。   日本教育紙芝居協会も解散してこの協会の一部会となります。  紙芝居も国策、政治の方針が入って行きました。  

国策紙芝居は全容が判っていません。  1000種類ぐらいはあったのではとも言われています。  私が預かっているものは20数点あります。   京都の福知山市で2014年に見つかりました。  お寺の所有物だったようです。              「七つの石」  吉田和夫?という少年が主人公。  慰問袋を渡そうという事だったが、母子家庭で貧しくてそれが出来ない。 宮城に行って涙を流す。  涙にぬれた小石を戦地の兵隊さんに届ければいいのではないかと考える。  慰問袋に七つの石を入れて送る。 戦地の或る兵隊が慰問袋を開けると小石が七つ入っているだけだった。  そこには手紙が入っていた。 「僕の家は貧乏なので入れてあげられるものがありません。・・・この石には何百万という日本国民が歌った「君が代」の歌や「天皇陛下万歳」の声が沁み込んでいます。  僕の涙もすいとった石です。  無事に凱旋されたときには、この石を元の宮城の前にお返しください。」という内容でした。

これらの兵隊は南京攻略でなかなかうまくいかず、数人ずつの決死隊を作ろうという事になります。   石をそれぞれに渡してこれをお守りとして出かける。  3人が亡くなるが大きな変化が生まれる。  1年後吉田和夫?少年のところに4人の兵隊さんが訪れる。  無事に帰れたことと大きな戦果を報告する。  吉田少年と4人の兵隊は宮城に行って石を返してお礼をする、という結末です。  銃後の人々(少年)を戦地と結びつけている。  兵隊の勇敢さも伝えている。  この作品は紙芝居コンクールの一等賞の作品です。  

「おおやけのいのち」 「隣組」の歌から始まる。  若い紳士(鳥山啓太郎?)叔父から5000円を借りて清谷博士の研究開発に協力している。  子供達の栄養を改善する栄養菓子の開発をしている。   なかなかうまくいかず叔父からお金の催促がある。     隣組の「等々力」さんから鳥山啓太郎?の妻(智恵子?)に防空壕の演習があることを告げる。 叔父は言い過ぎたと思って鳥山啓太郎?の家に行くがそこで彼の遺書を発見する。  隣組の「等々力」さんがやって来て叔父と話をする。   智恵子?さんは働き過ぎて横になっている。 でも妊娠している事だったという事が判る。  「私たちだけの大事なものではなくて、お国の宝でしょう。」と智恵子?は言います。  「死ぬ気で頑張るから、立派な子を産んでおくれ。」と啓太郎?は言います。  叔父さんは自分だけのお金だったというのは心得違いだったと気が付く。  研究が成功して全員が喜ぶ、という話になっている。   大人向けにも作られていた。  天皇陛下に命を奉げるという事が根底にあると思います。

当時は国が指導をして、出版物の検閲などがあり国の方針に沿った紙芝居を作ることがどんどん進んでいきます。   当時の大人たち、教育者、作家などは中には反対した人もいたかもしれないが、率先して作って行った、普及を進めた。  児童文化に関わったことの事実を噛み締めないといけないと思います。  当時の女性は参政権もなく、自己決定権がなかった。  子供を産み育てることを要求され、戦地に送るという事をすることが立派だと言われる。  そういう事が二度と有ってはならないと強く感じます。