築城昭平(長崎平和推進協会・継承部会員)・命ある限り、被爆の実相を伝え続けたい
8月9日は長崎原爆に日です。 築城昭平さん96歳、長崎平和推進協会の継承部会員です。 築城昭平さんは18歳の時に長崎市街の爆心地から1,8kmの地点で被爆しました。 市内の中学校の数学の教師を務める傍ら、語り部を始め長崎を訪れる修学旅行生を中心に被爆体験を伝えています。 また海外の人たちにも自分の言葉で直接伝えたいと、90歳の時から本格的に英語を勉強し、時には英語で語り部活動を行っています。 被爆者が高齢化する中で96歳になった今、どんな思いで活動を続けているのか伺いました。
核兵器が無くいならないと本当の平和ではないといつも思っていますが、8月9日が近づくとまた改めて感じます、 いつ核兵器が使われる戦争が起こったら、地球は滅びるのではないかと思っています。 当時、学校の寮で生活していました。 食料の問題は常に頭にありました。 かぼちゃが主食で、ほんのわずかです。 8月9日午前11時2分に原子爆弾が投下される。 夜勤で働いて帰ってきて寝ていました。 凄い音に起こされて防空壕に行こうとしたが、全身が真っ赤になっていまいた。 友達を見た時に、真っ赤になっていてそれで自分も真っ赤になっているという状況が判りました。 てっきり爆弾の破片でやられたと思ったら、ガラスの破片でやられました。 頭から全身血まみれでした。 布団をかぶっていなかったら即死でした。
真っ暗の中友達と助け合って外に出たら曇り空でうすぼんやりしていて、家がみんな倒れていました。 味わったことのない変な臭いがしました。 防空壕に着いたら満員で入れませんでした。(詰めれば40~50名入れる防空壕) 防空壕が3つあったが入れなかった。 まだ外にいる人たちが10名ほどいましたが、その人たちを見て吃驚しました。 全身大やけどで顔もめちゃめちゃでした。 地獄を見る思いでした。 10人ぐらい集まって来て、その人たちと行動をともにしました。 小高いところの木の陰に行きました。 いつの間にか血は止まった様でした。 3日後にビラがまかれて、弟がそれを拾ってきてみたら、原子爆弾だという事が判りました。 このまま戦争を続ければ日本の国は滅びてしまうので、天皇に申し上げて早く戦争を辞めるようにしなさい、というようなことが書いてありました。
原子爆弾がどんな威力のあるものかという事は知りませんでした。 広島に新型爆弾が落とされたのでこれもそうかと思いました。 焼け野原に死体が転がっていているのを状況が判ったのは写真を見てからです。(昭和26,7年ごろ) こんなに酷かったのかと思いました。 2か月してようやく起きれるようになりましたが、余り動けなかった。それから3か月経ってようやく動けるようになって学校に行きました。(学校は長崎市から大村市に変った。) 長崎市村上へは怪我をしていたので行かなかったことが、放射能を浴びずに幸いしました。 家族は長崎市の隣に疎開していて元気でした。 兄は医学生で兄にずーっと治療をしてもらいました。 元気は人は長崎市に死体の片付けとか家の片付けに行きましたが、翌日病気になって2,3日するうちに死んでしまいました。
1970年代、数学の先生をしていましたが、教え子も被爆者でした。 広島で被爆者の会を作ったという事で長崎にも作って、積極的に話をするようにしようと言われて、私が初代の会長になりました。 広島とやり取りする中で運動の様子を作り上げていきました。 そのころから話をするようになって、修学旅行生に対して年に3,4回という様な状況でした。 本格的になったのは1982年に長崎平和推進協会が出来てからです。 核兵器を作ってはいけない、使ってはいけないという事をみんなが心から思うようになって欲しいという事を思いながら、話をしています。
海外のいろんな国でも講話をしています。 アメリカのオハイオ州デイトンの博物館も訪れました。 実際に原爆を落としたB29も見ました。 小学生を30人程度連れて、この飛行機は長崎に原爆を落としてそれで早く戦争が終わって、亡くなることが少なくて済んで、良い働きをした飛行機だと説明していました。 こういう教育をしてるのかと怒りを感じました。 英語で話をしなければ外国人には上手く伝わらないと思って、やるだけはやってみようと思って、90歳になってから英語で話すようになりました。
長崎平和推進協会に継承の組織を作りました。 その中に高校生の三宅さんがいて、アメリカへ留学するので、私の話をアメリアに伝えたいという事で、それを聞いて嬉しかったです。 怒りではなく判り合ってゆくことが平和に対する大きな理由じゃないかと思います。 一辺は資料館に行ってもらいたいと思います。 こんな悲惨な爆弾があるという事は感じて欲しい。 被爆経験を持っている人がそのうち全部死んでしまうかもしれない。 戦争の悲惨さ、原爆の悲惨さを末代まで知らせて行かなければいけない。