2023年8月10日木曜日

大倉忠夫(弁護士)           ・〔戦争・平和インタビュー〕 喜界島繰り返したくない戦禍の記憶

 大倉忠夫(弁護士)   ・〔戦争・平和インタビュー〕 喜界島繰り返したくない戦禍の記憶

喜界島は鹿児島県本土と生き縄の間に位置し、海軍の前進基地がおかれ、戦争中アメリカ軍による激しい空襲に見舞われました。  島ではアメリカ軍の捕虜が日本兵に斬首され、殺された事件があり大倉さんは殺害される直前の捕虜と日本兵の姿を目撃していたと言います。    戦後弁護士になった大倉さんは、捕虜の虐待など戦争犯罪を問ういわゆるB,C級戦犯の裁判についてアメリカから裁判記録などを取り寄せるなどして、長年にわたって実態調査を続けてきました。  少年時代の戦争体験、そしてB,C級戦犯裁判の調査を通して大倉さんが感じたことは、戦争とは個人の人権侵害の最悪のものだという事でした。  

1931(昭和6)年の東京生まれ。  両親が喜界島の出身で8歳の時に喜界島に移住する。   両親と姉と私と妹一人、弟二人の7人でした。  飛行場が近くにありましたが、草むらで飛行機は来ないしのんびりした飛行場でした。   沖縄戦を想定して海軍は前進基地にしようとしたのではないかと思います。   兵隊がき始めるのが昭和19年3月ごろでした。   沖縄戦が始まる直前には喜界島には2000人ぐらいの兵隊がいたと思います。昭和20年3月27日 特攻隊が明日出撃するという事で、前の日から配置されていました。   集落の端から特攻隊の飛行機を見ました。   白い鉢巻をして、長く後ろに垂らしていたのを見ました。  お国のために命を捨てるという事は崇高なことだと教えられていたので、何の矛盾も感じていませんでした。  

喜界島での空襲は20年1月ぐらいから始まりました。  3月後半から空襲は連日になって来ます。  一番恐怖を感じたのは庭に爆弾が落ちた時でした。  隠れていた防空壕の中に砂煙が舞い込んできました。   しばらくして出て行ってみると家は傾いていて、ここにはいられないという事でみや?という所に行きました。  

昭和20年5,6月のころ、数人で山道を登って歩いていました。   平原が見えてきて、一人目隠しされていた人が居ました。  道路側に足を向けてしゃがんでいました。 日本の兵隊が来て「子供はあっちに行け。」と怒鳴りました。   父親にこの話をしたら何も言うなと言われました。  一緒にいた秀雄?という子が、振り返ったら、兵隊たちが追いかけてこなかったので、隠れてみたと言ったんです。  二人が天秤棒の様なものにアメリカ兵を寄り掛かかせるようにして連れてったという事です。  首を斬るところは見てはいないそうです。  その後に兵隊たちは大騒ぎになって、「うてうて めをねらえ?」という事を僕に言いました。  首を切ったけど1/3ぐらいしか切れなかった。 用意していたピストルで撃ったという事が裁判記録にあるんです。  

僕は苦痛を感じなかった。  捕虜になって生かされること自身が普通ではないと思っていました。  終戦後米軍から持ち込まれた民主主義の思想、それまでは国の為に命を奉げるのが最高の道徳だと教え込まれていて、個人というものはそんなに重要なものではないというように教えられていた、民主主義は個人の尊厳を尊重するという事が最大の民主主義の価値観であると、国家は個人のためにあるのであって、個人は国家にためにあるんじゃないという、価値観の大転換がありました。  命令によって人を殺したり、死んでいったり、他人の言う事を信じる場合に、自分で考えるという事が大事な事です。(自己責任。)    

弁護士になり、いろいろやりましたが、特徴的には米軍基地の労働者の顧問弁護士でした。 横須賀の基地を目の前にして、顧問弁護士をやるようになりました。  それぞれの利害関係があって対立する中で弁護士の仕事をしているのですが、相手方に対する信頼、尊敬が無いと、この仕事はできないです。  戦いのようであって戦いではないんです。  相手方の立場をよく理解する。(個人の尊厳)  

横浜裁判(日本全国と植民地だった台湾などで起きた331事件を扱い、1039人を起訴、51人が絞首刑となった。東条英機元首相らA級戦犯とされた28人を起訴した東京裁判の被告数を大きく上回る。)、捕虜への虐待、暴行に関わって罪に問われたB,C戦犯が裁かれた裁判。    横浜弁護士会のメンバーとして仕事をした時に、若い弁護士が目隠しの事件があったという事を知ったんです。  僕はそれが裁判になったという事は知りませんでした。  それで調べて観ようと思って始めました。  B,C級戦犯裁判は果たして公平だったのかという事などいろいろ派生してくるわけです。   個人の尊厳が認められたという感じはあまりない。   命令を受けた人が絶対服従というもとで殺した場合に、その人の責任はどうなるんだろうという事ですが、人間として踏みとどまらなければいけないこともある、それは人の命ではないかと僕は思います。   どうすべきだったのか、僕のなかでは回答がはっきりしないけど、殺せと言われても、相手を殺さなければ自分が殺されるという場面でも、理由がない場合には断るべきだと、戦犯裁判が教えているものではないかと思いますが。

命令に従ってやるという事は、個人としては自己責任の放棄ですね。  自分の考え、責任で行う姿勢、態度が必要だと思います。   戦争は個人の無視ですよ。  個人としてはいい人でも集団のなかでは、人権の侵害、捕虜の虐待、残虐行為をやっているわけです。  場に支配されて人間は残虐行為を行いがちです。   自分がそうなるかもしれない。  どういう場に立たされても、客観的に自分を見て、相手の人権を尊重するという姿勢を保てるという、そういう思想を持ちたいです。