2023年8月17日木曜日

海老名香葉子(エッセイスト)      ・〔わたし終いの極意〕 命の限り伝え続ける戦争

海老名香葉子(エッセイスト)    ・〔わたし終いの極意〕  命の限り伝え続ける戦争 

海老名さんは11歳の時に東京大空襲で、家族6人を亡くしたのち、父の友人だった落語家の三代目三遊亭金馬さんに引き取られました。  その後昭和の爆笑王とも呼ばれた初代林家三平さんと結婚、46歳で三平さんに先立たれた後は、おかみさんとして一門を盛り立ててきました。  一方で3月9日に「時忘れじ」の集いを開くなど、平和の大切さを伝える活動にも長き卯取り組んできます。  この10月で90歳を迎える海老名さんに、戦争体験を伝え続ける思い、そして生き方,終い方について伺います。

2005年に東京上野公園に「時忘れじの塔」という慰霊碑を建立。  私と同じように戦争孤児になった人が居ますから、その人たちの命の場?としてどうしても建てたい一心で建てました。 東京大空襲で両親と祖母、兄二人、弟、家族6人を亡くしました。 モンペを履いている母が弟を抱いて私が空に向けて「みんな平和に暮らそう」って言う気持ちの像を建てました。  上のところに時計を付けました。   毎年3月9日に「時忘れじ」の集いを重ねています。   戦後すぐに疎開先から戻って来て、16歳の時に先代の三代目金馬師匠に拾っていただきまして、その後初代三平のところに嫁に行きました。      家族のいきさつを話したら夫が泣いてくれ一緒にお参りしようと言ってくれました。    子供4人を連れて一緒に亡くなったところに行き遊んだこと、多くに他人が亡くなったことなどを話しました。  

東京都の平和の日の栄誉を仰せつかりました。   当時は東京大空襲の惨禍は語られていませんでした。  たった2時間で10万人の人が死んだんです。10日の日に東京都では東京都慰霊堂があり、関東大震災の関東大震災の身元不明の遺骨を納めていましたが、東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を合祀して、そこで慰霊祭をやっています。  東京都のホールで式典をやります。  3月9日に「時忘れじ」の集いを家族だけでやるつもりでした。  段々集まって来て300人ぐらいになりました。  多い時は1800人集まりました。   

「ババちゃまたちは伝えます」  作曲:田中和音 作詞:海老名香葉子    

 名古屋の女性の方から手紙が来ました。 ロシアの女たちは夫を、息子を、孫をみんな取られている。 100万人の女たちが苦しんでいます。  日本のお母さん助けてくださいと、私に手紙が来ました。  夢中で詩を書いて見せたら、これを世界中の人に歌ってもらおうと言ってくれて、田中和音さんが直ぐ曲を付けてくれました。  日本語以外に英語、ロシア語、中国語になり、ポーランドの人がヨーロッパのことは任せてくださいと言われました。  

生まれが1933年、東京都本所。  生家は釣り竿の名匠「竿忠」   パリの万国博に出品して賞をとったようです。(明治天皇からご褒美を頂いた。)   父は三代目音吉。       音吉のほか、母・祖母・長兄・次兄・弟の家族6人を亡くす。  私は身体が弱くて静岡に疎開していました。(小学校5年生)   機銃掃射にあい、自転車の乗っていた人はやられたようでしたが、私は助かって怖くて逃げかえってきてしまいました。  やられた人がどうなったのか、罪悪感が残ってしまいました。  空襲があるという事で山に登って行きました。  しばらくたってから東京の方が赤いという声が聞こえました。  皆がどうか無事でいて欲しいと思いました。   明け方帰ってきて学校に行ったら、「本所、深川は全滅だってよ。」と友達が言いました。  4日後三男の兄がボロボロの姿で訪ねてきて「みんな死んじゃった。守れなかった。」と何度も泣きながら伝えられ、家族の死を知った。 一晩泊って治療を受けて兄は東京へ帰ってしまいました。

爆撃の情報があるという事で、石川県に行くという事になりました。 伯母さんと子供二人と私で行きました。   石川県の穴水に行ったら本当に穏やかでした。  半年間でしたが心に灯がついた様な気持ちになりました。  そこで玉音放送が流れて、東京の伯母さんの家に行く様に言われました。  伯母さんの家も焼けてしまっていて、余計なものが来たというような感じでした。   何も知らされず、土地も処分されていて、金庫の中身を処分されていました。  親戚の人も、人が変ってしまいました。  家の焼け跡に立った時には本当に泣きました。(11歳)  死のうと思いましたが、母から「香葉子は強い子よ。だから大丈夫よ。いつもニコニコしているのよ。笑顔でいれば必ずお友達もいっぱいできるし、みんなに好かれるのよ、どんなときでも笑顔でいるのよ」と言われたことが心に残っています。  

行方不明の人は遺体もないので、死亡届にも名前がないんです。  ぐるぐる歩いていました。  家にはかつて金馬師匠が来ていたので、訪ねました。  師匠に会えて「生きていたのか。」と驚いてくれ、私を引き取ってくれました。   三平師匠と18歳で一緒になりましたが、46歳で亡くなりました。   ここで頑張らないといけないと思いました。 弟子は28人ぐらいいて、内弟子も10人ぐらいいました。  

今年で90歳(卒寿)になります。   「おはよう」と大きな声をかけて一日が始まります。  今日はこの仕事をしようと自分で与えます。   一杯病気もしましたが、そのたびに起き直ってしまいます。   死ぬとき迄何かしていたいです。  〔わたし終いの極意〕としては「いつも元気で明るく。」という母の言葉ですね。