村上しいこ(児童文学作家) ・絶対にしあわせになるんや
今年デビュー20年を迎えた村上さん、三重県出身、53歳。 絵本から小説まで幅広く手掛け、2015年には野間児童文芸賞を受賞しました。 今年4月の発表した著書「あえてよかった」の舞台は学童保育所です。 妻に先立たれて自暴自棄になっていた主人公が学童で働き始め、子供たちの悩みや心の傷、純粋な思いに触れるうちに、生きる希望を取り戻してゆくという物語です。 自らは父親の再婚相手から虐待を受け、学校ではいじめに遭っていたという村上さん、小説や絵本にどのようなメッセージを込めているのか、伺いました。
「あえてよかった」には、他の作品にも共通しているんですが、誰かと出会う勇気であるとか、自分から一歩前に踏みだす勇気を持ってもらいたいという思いがあって、この作品を書きました。 学童を通して本当の心の声を聞いて欲しい、知って欲しいという気持ちがありました。 東日本大震災があった時に、悔いが残らない人生にしたいという事を話していて、そういったことも影響していると思います。 夫が学童に務めて、いろいろ話を聞いて、衝撃的なこともあるし、親のいる時、いない時の学童の姿は違うものだなあとと言ったことを強く感じました。
夫から聞いている話の中で感情が動かない、という事が多々あると感じました。 何かに感動することがないとか、覇気がない感じがしました。 そこから子供たちの話をたくさん聞くようになっています。 他人から言われた言葉が身体の中を素通りしていってしまう。 自分の感情がどこか置いてきぼりになって、ここまで来てしまっているのかなあと感じます。 感情を思い切り出せないで、悶々としたままになる。 コロナ禍で、一番感情を養わなくてはいけない時期に、家にずっといてという事も影響していると思います。 自分の感情を養ってゆくとかとか、言葉を覚えてゆくのは読書の一番いいところであり、子供たちに伝えたいなあと思います。 子供達が前に進もうと思った時に、大人が寄り添って前に進むのは大事なことだと思います。
本は子供のころから読んで好きでした。 大人になって原稿用紙4,5枚の短いお話を書いていたことがありました。 自分の子供に本て楽しいんだよいう事を伝えられたらいいなあと思いました。 私が物心ついた時には母親が居ませんでした。 父親と二人だけの生活でした。 3歳ぐらいで父が再婚して、継母にも子供がいて、最初は姉との差別がありました。 小学校のころ弟が出来ました。 段々差別がひどくなっていきました。 虐待が始まって殴ったり蹴られたりしました。 食べたり寝たり普通の生活が一切許されなくなりました。 笑ったり、しゃべったり、泣いたり、怒ったりと言った当たり前の感情が私から失われて行きました。 暴力だけはエスカレートしていきました。 父は単身赴任の仕事をしていたので、ほとんど家には居ませんでした。 父が戻ってくる時には押し入れにいれられたり、継母の親戚の家に行かされて、私が父親には会いたくないという事を父親に言っているんです。
小学生になると、継母からの傷があることが虐めの対象になってしまいます。 唯一自分の居場所にしたのが、学校の図書館でした。 物語に浸って、自分を取り戻して、一人ではないんだという事は登場人物たちとの間でした。 「手袋」という絵本では、沢山の動物が入って楽しそうに一緒に暮らしているんです。 「赤毛のアン」も前向きに生きている。 明日にはきっとこんな幸せな日が来るんだと思えば、それは楽しい日々になるんだというのが、私の背中を押してくれました。
中学2年の時に、自分のなかで本当に限界だと思って、私は死のうとしました。 進路を決める時に、自分には毎日殴られる人生しかなくて、死のうと思ったが死ねませんでした。継母に殴られている時に、「私のことをそんなに憎いなら殺してくれ。」と言いました。(初めての口応えでした 。) 鼻で笑って「お前は半殺し、殺しはしない。」と言いました。 何故自分は死ねなかったと思った時に、今では私には本があった、本当の意味で独りぼっちじゃなかったと思いました。 本からの小さな光が当時からあったのではないかと思いました。 死ぬか生きるかしかなかったので、死なないのなら、絶対幸せになろうと思いました。 20歳までは我慢をして、絶対この家を出て、私は絶対幸せになろうと思いました。 それを心に秘めて、中学卒業後、昼は工場で働いて夜は回転寿司にバイトに行っていました。 昼のお金は全部家にいれて、夜の金は自由に出来ました。
継母から5000円盗んで、身の回りのものをバックに詰めて、家をでて面接をしたら採用されました。 住み込みで、私には個室がありました。 ベッドあり、ご飯、お味噌汁が温かくて、美味しくて、やっと当たり前の生活を手に入れたと思ったのが、22歳でした。 そこをスタートに始めたのは笑う練習でした。 松阪に引っ越したのが26歳でした。 夫と出会う事になったのは29歳ぐらいでした。 牛鍋店に仲居として入り、出会って、1年後に店を始めましたが、半年で辞めました。 本に救われたこともあり、自分の子供にオリジナルの話を書いて上げられたらと思って。原稿用紙に5~10枚程度の話を書いていました。
夫から「応募してみたら。」と言われました。 或るドキュメンタリー番組を見て、自分は「愛着障害」ではないかと言われました。 他人に愛されてこなかった分、この人を信用したいと思った時点で、その人がちょっと横を向こうとすると、又独りぼっちになるという恐怖にとらわれてしまう。 話を書き始めて、2001年に小さな童話大賞「俵万智」賞を受賞。 或る編集長から「作家になりませんか。」と言われて、60枚書いて送りました。 返事が無くて、ずーっと待っていました。 1年後に年賀状が来て、今年は出しますと書いてありました。 『かめきちのおまかせ自由研究』でした。 ネット社会になって、広く薄くうわべのことは良く知っているが、根っこのところはよくわかって居なくて、子供達には根っこを養ってもらえる様にしてもらいたい。 自分でしっかり根を張っていないと、人を笑顔に、幸せに出来ないと思います。 絶対幸せになれる力があるからという事を子供達に、作品に込めて伝えたいと強く思っています。 周りの大人が子供たちと話をすることで、気持ちが救われることがあると思います。