山本榮策(元敦賀歩兵第119連隊上等兵) ・〔戦争・平和インタビュー〕 102歳、ただ1人生き延びて
大正9年(1920年)滋賀県大津市に生まれた山本さんは、大学3年生21歳の時に鶴賀歩兵第119連隊に入隊、中国雲南省やビルマ、シッタンなどでの作戦に参加したのち、現地で終戦を迎えました。 現在は滋賀県草津市で20年に渡り小学生に戦争体験を伝え続けて居ます。 山本さんにとって強く印象に残っているのは、命からがら生き延びた体験、悲惨な死を遂げた仲間の姿やそれを救えずに抱いた罪悪、生き延びた自分の役割は残酷な戦地の実情を知ってもらう事だという山本さんに伺いました。(聞き取りにくくて、内容に一部齟齬があるかもしれません。)
終戦から78年102歳。 戦争は3,4年の短い期間でしたが、どんな苦しみがあってもあの苦しみのことを思うと我慢が出来る。 そういう気持ちが今はあります。 学徒兵としてビルマに入ったのは昭和19年5月、太平洋戦争で最も無謀だと言われた、インパール作戦が中止される2か月前のことでした。 敗色が濃くなってゆく中で、山本さんたちは戦地に向かいます。 部隊での役割は中隊長の元に指揮班でした。 制空権が取れないので昼間は行動が出来ない。 夕方からしか動かない。 大雨に降られてびしょぬれになって前に進めず休憩することになりました。 幸いと虱の付いた着ているものを乾かすために着替えたんです。
敵の偵察機が来まして、見られた後でした。 空襲が来ることは上層部でも思わなかったと思います。 朝、ご飯を炊いて、川を渡ってその時に戦闘機が4機来ました。 爆弾を落としたり機関砲で銃撃したりしました。 その時には顔を洗ったりしていました。 飛行機が帰るまで谷間に潜んでいました。 戦死者が16名負傷者が11名、血の海、地の地獄でした。 負傷者が「痛い痛い」という声があちこちで聞こえました。 私をいつも労わってくれた人が爆弾の破片が付き刺さって(首から頭にかけて)いて、「殺してくれ」と言いますが、殺す訳にも行かないので、どうしたらいいかなと思っているうちに亡くなりました。 こんな人がなんでこんな死に方をするんだろうと思いました。
涙も枯れてしまって出ないし、こんな戦争を何でしてきたのかなあと思うぐらいでした。 ビルマ戦線で大きな怪我を負いました。 8月12日右足に傷を負いました。 最初敵は戦車で攻めてくると思っていました。 雨期になって敵は飛行機に方針を変えました。飛行機が7機飛んできて、攻撃されました。 私は機関砲の弾で右足をやられました。 痛くはなくしびれていました。 右太ももの付け根を止血しました。 靴を脱いだら骨が出ていました。 今も小指や薬指が変形しています。
昭和19年6月鶴賀歩兵第119連隊はビルマと国境を接する中国雲南省の龍陵に送られました。 現地の日本軍は中国を始め連合国軍との大規模な戦闘に備えて準備を進めていました。 山本さんたちは中心部から数km離れた山に援軍として配置されました。 敵に何重にも包囲されていていました。 陣地に塹壕を掘って見えないように細工はしました。 皆が休憩している時に私は歩哨に行きました。 中国など連合軍からは200門を超える大砲から雨のように砲撃が浴びせられ、仲間は次々と倒れていった。
こちらは弾もないし、じっとしていたらやられると思って、明日は玉砕するつもりで突っ込んで行こうじゃないかと本部に告げました。 もう玉砕しても意味がない、撤退しろという命令が出ました。 機関銃が1台と通信機が1台ありましたが、それを壊して撤退する様にとの命令がありました。 撤退の時に足を滑らせて崖から落ちてしまいました。 意識を失って気がつけば約40メートルの崖下に転落していた。 地面のシダがクッションとなり、一命はとりとめた。 ジャングルの中をさまよいました。 夜は真っ暗となりどうしようかと思いました。 一晩寝て日本の陣地の方に行こうと思いましたが方向が判りませんでした。 もう一晩過ごしました。 食べるものも水も無くなり,倒れているところを日本の兵隊が通って、本部にたどり着きました。 助かったという思いがありました。
これらの体験は90歳まで話せずにいました。 撤退命令が出た時に、マラリアで高熱にうなされる仲間の上等兵に「連れて行ってくれ」と懇願されたが、「すまない」と置き去りにするほかなかった。(戦死の仲間に入っています。) 長い事話すことはありませんでした。 或る時に話すことになりました。 話すことで自分の気持ちが変るかなと思いました。 戦争はしてはいけないという事を世の中に伝えていかなくてはいけない。 今年2月に本を出版しました。 生まれてから戦後復員するところまで。 私は生きて帰って来て、何か国のために何かしなければいけないと思って、自分ひとりでは生きられない、人によって生かされている、だから自分もその一人として、人を生かしてゆく、という事に努力していかなければいけない。