佐藤直子(長崎被災協・被爆二世の会長崎・初代会長)・被爆の記憶をつなぐ
被爆者の平均年齢が85歳を超える中、被爆体験の継承が今後の課題となってきます。 父親が被爆者であり全国各地でその被爆体験を引き継ぐ講話活動をされている長崎被災協・被爆二世の会長崎・初代会長の佐藤直子さん(59歳)にその活動の思いを伺いました。
8月9日は長崎の人にとっては特別な日なんですが、またやってくると思うと感慨深いです。 父は2019年に86歳で亡くなりました。 父は語り部をずーっと続けて来ましたが、これからは頑張って行かなければいけないと決心しました。 70代の後半ぐらいから継いでほしいと言われていましたが、子供達も小さくてそこまでは進んではいかなかったです。 2012年に朗読ボランティアと長崎被災協・被爆二世の会長崎に入り、活動するなかで自分が語り継いでいかなければいけないのではないかと思いました。 父は12歳の時に被爆しました。 他の兄弟5人全員が亡くなりました。
父はそういった体験を話しませんでした。 自分が弟を焼いたという事は聞いていましたが、子供だったので、焼くという事は想像できませんでした。 父は語り部を始めた頃は必ず泣いてしまいました。(辛いことは話したくなかったと思います。) 直に見たことはありませんが、父がラジオで話をしているうちにどんどん涙声になって行って、凄く悲しい思いをしたんだなあと思いました。 8月9日が近づくとポロっと断片的に話すことはありましたが、まとめて長く話すことはありませんでした。 私が語り部を引き継ごうと思うまでは全くなかったです。 弟を一人で焼いたという事はとってもつらかったろうと思いました。 兄弟5人全員を亡くし、自分一人だけが生き残ったわけです。
2012年に朗読ボランティアと長崎被災協・被爆二世の会長崎が発足、初代会長になりました。 会が発足する前に二世の集いが何回かあり、父が理事をやっていて毎回参加していました。 長崎被災協の理事さんたちから会長になってほしいと言われました。 最初は断りました。 一番近い位置にあったし、周りからサポートしてくれるという事もあり、引き受けることにしました。 まずは知ることが必要だと思っていろいろなイベントに参加しました。 朗読ボランティアンも参加しました。 学んでゆくうちにいろいろ知識が入って来ました。 被爆二世ではない人の頑張りが凄かったので触発されました。
引き継ぐときが、父が70代後半だったので、大分記憶がなくなってきた時期でした。 一橋大学の浜谷先生のゼミの学生さんが15年に渡って父に聞き取りをしているんです。 細かいことまで纏められていました。 独りぼっちとなり、家では泣くことが出来ずに山に登って大声で泣いたという事が書かれてありました。 母親と一緒に買い出しに行っていて、爆心地から2kmのところにいたので、父は助かりました。 赤い背中の少年という形で谷口稜曄(たにぐち すみてる)さんの話も聞きました。 被爆二世の会としてお願いして、谷口さんの背中を触ったこともありました。(2017年に88歳で亡くなる。) 背中は何回も移植して綺麗な状態にはなっていましたが、正常は人の背中ではありませんでした。 床ずれがひどくて肋骨が表面に出てきていました。 被爆直後1年9か月うつぶせの状態で、余りにも苦しいので何度も「殺してくれ」と言ったそうです。 手術も24回したそうです。 骨が心臓や肺に食い込んでいたところをまじかに見せていただき、本当に驚きました。
私たちが観たもの聞いたものを次の世代の人たちに伝えていかなくてはいけないという風にメンバーみんなで決心しました。 現在会員は100名弱います。 長崎被災協・被爆者の方々が身体がなかなか思うように動かないという事で、私たちがサポートして、被爆者の方々からこれまでの活動がどういうものであったか、という事を学習会で学んだり、交流会をしたり、二世の健康不安もあるので、国が健康調査をしてもらいたいが実現しない、がん検診も二世検診に加えて欲しいと要請に行ったりしています。 親の体験を1/3ぐらいの被爆二世の人は聞いていないと言います。
2014年に長崎市が家族証言事業を立ち上げて、私は一番に登録をしました。 全国各地から講話の依頼があり、国を通して派遣の活動をしています。 県外に出ると全く原爆のことを知らない学校があります。 そういうところでは、原爆がどういったものであるかという事から詳しく説明していかないと、父の体験を話してもなかなか伝わらない。 東京の世田谷の本屋さんで、オンラインでつないで、全国に向けて講話をしました。 原爆のことを始めて聞きましたという人もいました。
紙芝居にして伝える活動もしています。(15枚構成) その一部を説明。(弟を焼く時の様子など) 紙芝居が出来たのが2014年で語り部としてデビューする年でした。15分ぐらいのものですが、父目線で書かれたものです。 高校時代は全国放送コンテストで優勝していまして、大学、銀行ではFMでパーソナリティーをしていて、それが生かされて不思議な感じがしています。 紙芝居のお披露目の時には父も聞いていて涙していました。 2019年に亡くなりましたが、半年前まで語り部をしていました。 最後には何も言う事は出来ませんでしたが、娘が継いでくれたという事で、きっと喜んでくれていると思いました。
母親は何をしているのかと知ってもらうために活動には子供を連れて行っています。 継いでくれとかという強制は特にしてはいません。 長崎市内の浦上川が流れていて、被爆した当時水を求めて苦しんだ川ですが、父が毎年花を植える活動をしていました。 父が数日後、川に行った時には水が見えないほどたくさんの死体が浮いていたそうです。 通るたびにその時の様子が頭に浮かんで、被爆70年を迎える前年に浦上川の河川敷に花壇が出来て、父は花を植える作業をしようと思って、父が独りで始めました。 「平和なところにしか花は咲かない」と父はよく言っていました。 花の活動も一般の方々やマスコミ、学生などいろんな方が携わってくれます。 なんで浦上川の河川敷に花が植えられているのか、ちょっと考えてもらいたいと思います。
被爆者も高齢になり、私たち二世も修学旅行者向けに秋から講話を行う事に、理事会で決定しました。 父の体験を話せるのは私一人しかいないので、しっかりと次の世代に伝えてゆくべきだと強く決心しています。