林哲司(作曲家) ・作曲家デビュー50周年 変わらぬ曲作りへの情熱
1949年静岡県生まれ。 1973年シンガーソングライターとしてデビューし、以降作曲家としての活動を中心に作品を発表しています。 竹内マリアさんの「SEPTEMBER」、松原ミキさんの「真夜中のドア」、上田正樹さんの「悲しい色やね」、中森明菜さんの「北ウイング」など2000曲を越える楽曲を制作しています。 今日は近年のシティーポップブームの原点となる作品を多く手がけた林さんに、今までの音楽人生を振り返りながらシティーポップブームの背景などについて伺います。
2020年に1979年の松原ミキさんの「真夜中のドア」が、ネットの動画をきっかけに世界的な大ヒットとなる。 好きな曲を好きな時に聞ける環境になりました。(聞き方自体が変わってしまった。) 今やまさに国境がないという感覚ですね。
五人兄弟の末っ子ですが、長男、次男とは一回り以上違っています。 物心つく頃には兄たちは洋楽を聞いたり歌謡曲を聞いたりしていました。 それらが自分の耳のなかに入ってきちゃいます。 洋楽は英語の言葉は分からないがイントネーションで覚えちゃいます。 最初パットムーン、プレスリーとか甘い音楽が好きでしたが、ビートルズを聞いた時には違和感を感じました。 ビートルズのニュースが先行していましたが、段々引き込まれて行きました。 高校に入った時に初めてエレキの音を身近で聞いて、直ぐにバンドにいれてくれとお願いしました。 加山雄三さんの影響があり、曲を作るようになりました。 日本大学に入りましたが、郷里の仲間と音楽活動は続けて居ました。 学校は余りいかずに、ジャズ喫茶、映画などに行ったり本を読んだりしていました。 ポップスに傾注して、作って歌うという事が自然体でした。
1972年南米チリの音楽祭に応募して、入賞。 それをきっかけに海外に出ました。 ヨーロッパに3か月行きましたが、歴史があり各国の文化が隣接していてそれを観れたのは良かったです。クリエーティブな部分を歌謡曲よりも洋楽の方に僕は感じました。 1973年4月にシンガーソングライターとしてデビューしました。 あとから考えると最初の10年は助走期間だったような気がしました。 1977年イギリスのバンド「ジグソー」が自分の曲「If I Have To Go Away 」をレコード化して欧米でチャートインする。 大変なことになったと思ったが、誰も騒いではくれなかった。 1979年に竹内マリアさん、松原ミキさんなどボーカリストとしてポップスを聞いて来た人たちが台頭するようになってきた。 竹内マリアさんの「SEPTEMBER」は8月、松原ミキさんの「真夜中のドア」は11月に出しヒットする。 ボーカルの力が歌に息吹を与えるという事に繋がってゆくんだという事が発見できたという事は、自分のその先の活動にとっては意味のあるヒットだったと思います。
1982年上田正樹さんの「悲しい色やね」、関西弁が入っているとは予期していなかったことです。 それからは詩を意識してメロディーを作ることを自分の中で考えるようになりました。 1983年 杏里さん「悲しみがとまらない」、杉山清貴&オメガトライブ「ふたりの夏物語 -Never Ending Summer-」。 自分自身の音楽性が同調されているという事が確信を持てた時代でした。 1984年中森明菜さん「北ウイング」を作曲。 激動の年でした。 曲をヒットさせ続けたという事だけではなくて、父親が倒れて3年間意志の疎通もなく亡くなり、自分の長男も生まれました。 一番忙しい時期でした。 衰えてゆく父親と育ち始めた長男、脳が持つ力を意識した時期でした。 原田知世さんの「天国にいちばん近い島」、作曲家としての売り上げNO1となるが父には伝えることが出来なかった。
1990年代、世界的にCDが売れなくなってきて、音楽産業が衰退してくる。 信頼関係もくずれてくる場面もいくつかあって、人間関係を含め、自分の環境にいら立ちを覚えました。 段々音楽を作ることが厭になった時期もありました。 35周年記念は一つの節目として臨みました。 お客さんから拍手を頂いた時に、辞めちゃあいけないのかなと思いました。(元気を貰った。) バンド「エイド」を結成、パフォーマーとしての活動をする。 これまでの自分の曲を見直してゆくという総合ファイルライブシリーズを行う。 企画をすることが根っから好きです。 ポップスを作るという事に関しては50年経っても変わってはいないです。 作詞家をはじめいろいろな人が曲を作ってゆくうえで介在していて、感謝しかないです。 ミュージカルは色々な要素を含んでいるのでやってみたいです。