照屋恒(語り部) ・対馬丸の生存者・対馬丸記念館の語り部
照屋さんが語る戦争体験というのは、終戦一年前の1944年の8月、沖縄から九州に向かった疎開船対馬丸を襲った悲劇です。 対馬丸は奄美大島と鹿児島県本土との間に位置するトカラ列島悪石島の近海でアメリカ軍の潜水艦の魚雷によって沈没、800人近くの子供を含むおよそ1500人が亡くなりました。 当時4歳だった照屋さんは、疎開の為母親や姉と対馬丸に乗船していて、家族のなかでただ一人生き残りました。 微かに覚えている母親の最後の言葉を胸に、壮絶な体験の語り部活動を始めた照屋さんの思いを聞きます。
対馬丸の語り部は2004年から12人の体制で始まりました。 私は当時4歳だったので詳しくは判らないです。 ですから自分の体験を細かく話すことはできないし、語り部の事は最初は断っていました。 乗っていたという事は事実であり、現状試行錯誤で語り部をやっています。 父親は大阪で軍の仕事をしていました。 祖父母の那覇市に母と姉と私が行きました。 沖縄が戦場になるという事で大阪に帰ろうという事になって対馬丸に乗ることになりました。 1944年の8月21日の夕方に対馬丸は港を出港。 対馬丸は老朽貨物船でした。 甲板まで約10mぐらいあり、縄梯子で登って行きました。 二段ベッドがあってそこで寝ていた、という事でした。 子供は畳一畳に3名の子供が座っていたという事でした。 凄く暑くて禁止されていた甲板で寝た学童もいたという事です。 学童は旅の気分でした。
出航して27時間30分、8月21日の夜10時過ぎ、対馬丸は鹿児島県悪石島の北西10kmの地点を航行中にアメリカの潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受ける。 海水が入り込み、甲板に登れず船と一緒に沈んでいったものと思います。 姉は学童疎開なので、船の先端の方に乗っていて、一般の人は船尾の方に乗っていました。 私と母親は船尾の方に乗っていました。 母親に手を引かれて甲板にあがりました。 「早く海に飛び込め、飛び込んだら早く船から離れろ。」という言葉が、残っているような気がしました。 10mあるし暗くて、大人たちが投げたという話もあり、私の場合は母親と一緒に飛び込んで、船から離れていきました。 醤油樽に縄が十字に結わえてあり、母親と一緒に縄を掴んでいました。 しばらくして、母親が「姉を捜しに行くので、縄を絶対に離してはいけないよ。」と言われ、母親は暗い海へ消えて行きました。 それが母親との別れでした。
船の船員に助けられる間の記憶はないです。 宮崎にいた父親の兄弟の一番下の妹(伯母)が宮崎から大阪の方に私を迎えに来ました。 しばらく宮崎に生活していました。 食糧事情が悪くて、残っていたおこげを貰って食べていました。 沖縄に帰るという事になり、叔母と一緒に船に乗って行き、捕虜収容所みたいなテントで2,3日過ごしました。その後祖父母、叔母などと一緒に現在のうるま市に住みました。 小学校2年の夏休みに那覇市に移りました。 「運が良かったね。」と言われるが、憐みのように聞こえて気持ち良くなかった。 記憶がほとんどないので、何か言いたくても何も言えない状況でした。
対馬丸記念館が出来て、協力してほしいとの声があったが、60代で身体の自由が利くのでやりたいことはたくさんありました。 対馬丸に関わりたくないという事が一番大きかったです。 波の音は足を引っ張らるような感じがして嫌でした。 先輩が活動してきて話をしてきたが、自由が利かなくなって段々少なくなっていきました。 出来るうちに協力しておかないといけないのかなあと思い承諾しました。 記憶がほとんどない中、どう表現したらいいのか、迷いました。 段々話す事にも慣れて行きました。
子供達に話す時に、「戦争だけはやったら絶対駄目だ、やらないんだ。」といつも話します。 記憶がほとんどないので、対馬丸のことをもっと聞いておけばよかった、という思いはあります。 対馬丸の語り部をやってるという事は一つの自信にはなっています。(成長した。) 体験者が少なくなっていき、関心を持っている人が継続していただければ有難いと思います。 是非対馬丸記念館を見ていただき、聞いて「戦争は駄目だ。」という事を感じていただきたい。