2023年8月9日水曜日

大西郁(90)               ・〔戦争・平和インタビュー〕 弱者を犠牲者にした大空襲の夜」

 大西郁(90)     ・〔戦争・平和インタビュー〕  弱者を犠牲者にした大空襲の夜」

250人以上が亡くなった1945年7月の松山大空襲。  当時小学校6年生だった愛媛県松山市の大西郁さん(90歳)は同居中の寝たきりの叔母さんを置き去りにして逃げたことを今も悔やんでいると言います。  大西さんは戦後このことを胸の奥にしまっていましたが、2018年の西日本豪雨の災害をきっかけに、語り部活動を開始しました。  今も弱者が真っ先に犠牲になるというのは変わらないと言います。  そんな大西さんの思いを聞きました。

大西さんは6人兄弟の末っ子。母親がご病気で4歳の時に亡くなり、2歳の時に年齢が50歳ほど離れた伯母の家に預けられました。  母親でもあり、明治生まれの気骨のある女性で居て、気配りのある、私にとっては伯母さんは理想の人でした。  伯母さんの家は、松山市の中心街にある菓子問屋で元締めみたいな商売をしていまた。  店員も通い、住み込みの人が沢山いました。  1938年伯母さんが脳溢血で倒れました。(5歳の時)  寝たきり状態になりました。 昭和20年(1945)には、戦況の悪化で、愛媛県内各地に米軍の爆撃による被害が出ていました。 当時、私は12歳。伯母は60歳くらい。  この時は、伯母の家で、伯母と夫など5人で暮らしていました。 付きっきりで食事の世話も、下の世話もしないといけない状態でした

看護婦さんは毎日のようにやってきたけれども、戦争が激しくなって看護師さんも来てもらえなくなったので、私たちが手や足を伸ばしてあげたり、マッサージをするなど、そういうふうなことを子供でもしないといけない。誰に言われたわけでもないけれども、自発的にしていました。  主に私がやっていました。  松山大空襲の半年前に、家族で、空襲時の避難計画を事前に立てていました。  空襲警報が鳴ったら、自分が真っ先にリヤカーを取りに行き、伯母を乗せて逃げると、本人にも伝えていました。  避難先は久米の役所の離れに借りるという約束はできていました。(歩いて2時間ほど)  伯母さんはね、生きる意欲はあったと思うんです。「このままにしてもろても構わんのよ」って言ってましたけれども、「私らがそんなことできるわけないじゃないの。おばさんと一緒に逃げるんよ!」と言いきかせましたね。

昭和20年1945年7月26日、夜11時過ぎ、松山市内についに空襲警報が鳴り響きました。  松山市史によると、死者は251人。市内の家屋の半分以上が米軍によって焼かれました。 もう家の中でも会話しづらいぐらいの大音響のサイレンでした。  「リヤカーを借りてくる。」と言って飛びだしました。  リヤカーの上は、既にその家の人の荷物が1つ2つ積まれ、貸して下さいとは言えない状況でした。   伯母さんにどう伝えていいか。本当、金縛りに遭ったような気分でした。  家に戻って入ろうとしたら、姉さんに止められました。  姉さんは伯母さんを助ける方法はないとすぐに気が付いた様です。  私は、「伯母さんどうするの、伯母さんどうするの」と言った記憶があります。     あの時心のなかに鬼が住んでいたと思います。  辛かったです。

40~50分走ってからB29が来て、黒い煙が上がったのを見ました。  市内全体が火の玉みたいになるのを見ていました。  一言も伯母さんに声を掛けられずになってしまって、いつまでも心残りです。  翌日避難先から伯母さんの元に行こうとしました。  「伯母さんがね、焼け死んでいるのは、自分の頭では分かっているんですけれども想像ができなかったですね。  「疲れと空腹で、トボトボと歩いてたんですけれども、グラマン戦闘機が1機だけ、ヒューンっと近くに迫ってきて、高い所からすーっと降りてきたんですね。  機銃掃射で、バリバリバリと撃ってきました。  それの破片が私の左腕に当たってしまいました。  兵隊さんが駐屯しているお寺に連れてってもらって、いました。破片も取ってもらったし、止血してもらいました。  代わりに、姉が一人で伯母の自宅に向かい、4,5時間経った後、戻ってきました。  伯母さんは、そのまま上を向いて、寝たきりの、綺麗なお骨になっていたそうです。  姉が風呂敷にお骨を入れて持ち帰りました。    リアカーを借りることができなかった場合も想定しておくべきだったと後悔しています。

大学で経理を学び60歳まで働いた後、70代、80代までシルバー人材センターで働きました。  戦争の体験は封印したいという気持ちが強かったですが、どうしても思い出します。  5年前に2018年の西日本豪雨がありました。  弱い人が見捨てられる。   それが伯母さんの時と重ね合わせて思い出されました。   伯母さんのことを話すことで災害があった時に、皆がどう対応するかという事を考えてくれるのではないかと思いました。 

昨年7月の伯母さんの命日にお花と共に伯母さんのことを綴った手記を墓前に供えました。そこへ置いたら伝わるのではないかと思いました。  今年6月15日、気持ちに区切りをつけてから初めて、語り部活動を松山市内の小学校で行いました。  伯母さんが読んでくれている様な気持ちになりました。  一人でも多くの小学生に、自分の体験を伝えたい。絵空事のように、戦争のことを思ってるお子さんが多いじゃないですか。それがちょっとでも、体験者の口から生々しい話が聞けたら、ある程度分かってもらえるかなって思っています。  弱者を犠牲にする戦争を二度と繰り返してはならない。