三條正人は1943年(昭和18年)生まれ。 鶴岡雅義と東京ロマンチカのメインボーカリストとして、又ソロ歌手としても活躍しました。 2017年10月亡くなりました。(74歳) お話は奥さんの香山良子さんに伺いました。
ジッとしていられないタイプです。 世界地図を広げていろいろ思うだけで楽しみです。 子供は結婚10年目の子だけれど、或る時「一緒に時を過ごしたのは1年ぐらいだった。」と言われて、お互い忙しくてしみじみ夫婦だと思ったことはなかったです。 2年間ぐらい闘病で同じ方向を向いて戦う、辛さを出してはいけないし、あの時時に初めて夫婦と感じ取りましたから、こんな夫婦もあるのかなと思いました。 結婚は昭和48年。 きっかけは民放の「ラブラブショー」に出演。 その後何となくゴルフに行きましょうとか、という風になりました。 結婚後も女優を続けさせてもらって、忙しいなか10のうち3をやれば認めてくれて、成立するのではないかと思いました。 睡眠が3時間ぐらいでもちょっと何かを片づけたりして、先に出かけてしまっても、やってくれたんだという思いがあるのではないかと思いました。 1日をこなしていかなければいけないという生活でした。
子を産んで育てて行って、また違う裕福感、子供を介しての知り合いがリンクしてゆくので、これが面白くて、役職を好んでいただいてやりました。 人生出っくわしたものに楽しまなければいけませんねと思いました。 子供を生んだのが39歳でした。 或る時に子供が軽い嘘をついたが、「駄目」と言っても効き目がないと思って、3日間話をせずになんで話をしなかったかを説明したらその後嘘はつかなくなりました。 いろいろ厳しかったと思います。 夫は溺愛していたので、こちらとしては寂しかったです。
甘い歌を歌う割には、真逆で夫は非常に男っぽい人でした。 地声は全然違います。 競馬、ゴルフ、麻雀が好きでした。 家には2卓あり麻雀をやっていました。 私は馬は大好きですが、麻雀は大嫌いでしたが、或る時からめちゃくちゃ好きになりました。 煙草を私も吸っていましたが、子供を産んで辞めましたが、夫は辞められませんでしたが、医師に「このまま吸っていたら声が出なくなる」と言われて以来、辞めました。 お互いが仕事のことは知りませんでした。 お互い仕事を持ち込まない努力はしました。
病に倒れて大変でしたが、その時に同じ方向を向いているなと、夫のために絶対口外しないと、普通にふるまうと、そうでないと夫が神経質になるだろうと思いました。 その2年間があったから同じ方向を向けたっていう事でしょうね。
私は子役として劇団こまどりに在籍しました。 国語の朗読が好きでした。 高校在学中の1961年、準ミス・エールフランスに選出されました。 1962年、高校卒業後に松竹へ入社。 大女優が沢山いました。 全盛期には年間16本も出たこともありました。 若いころは近所の旅館に泊まって撮影所暮らしでした。 新劇の養成所へも通いましたが、寝る暇もないようになり1年で辞めました。 テレビの『銭形平次<大川橋蔵版>』では平次の妻・お静を14年間やりました。 本当は1年のつもりでした。 大川橋蔵さんは偉ぶらず、やんちゃで 、綺麗な流し目をします。 いろいろなたたずまいを盗ましてもらいました。
生きている限りは前を向いていないと。 私はいつも、今日から始まる、今から始まる、ここから始まる、っていつも思うんです。 空回りしてても前を向いていないと楽しくないですよね。 歳の重ねは必ず後ろにいっぱいのものを重ねて持っている、持っている体が前を向けば、年相応の感覚で楽しめるだろうと思っています。 おばあちゃん役が面白い、自然体で出来る年齢になってきたというところで、本当に面白いんです。