西村理佐(医療的ケア児・帆花(ホノカ)さんの母)・【人生のみちしるべ】娘の“いのち”は明るくあたたかい
14年前帆花(ほのか)さんは生まれてくる時にへその緒の動脈が切れて、脳死に近い状態になり医師は両親に「目は見えない、耳は聞こえない、今後目を覚ますことも動き出す事もありません」、と告げました。 帆花(ほのか)さんは生後9か月の時に退院して家族3人で自宅での生活を始めます。 当初いろんな制約や前例がないことなどから、公的な援助もままならず、母親の理佐さんは丁寧に説明し、時には直接帆花さんに会ってもらう事で、すこしずつ理解してもらい、自分たちの取り巻く環境を変えてきました。 今年1月帆花さんが3歳から6歳までの西村家の生活を追ったドキュメンタリー映画「帆花」の公開が始まりました。 14年間帆花さんのケアを続けてきた帆花さんの母、理佐さんに伺いました。
今吸引しているところで、吸引は2種類あり、唾液と鼻水を吸う吸引と、喉に孔を開けて気管切開の手術をしていますが、喉の孔のところに呼吸器を装着していますが、そこの呼吸器を外して器官内の吸引をするというのがあって、今それをしているところです。 日曜日だけがいろんなサービスをしていない日になります。 家族3人だけで過ごす休日になります。 二人で必ずケアしているので 、何もしないで椅子に座っているというのが10分ぐらいです。 24時間ケアが必要で、一番大事なのが肺痰ケアで、普通は咳などで肺の痰を出せますが、帆花の場合には咳が出来ないので、痰を取ってあげないといけない。 吸引という作業になります。 吸引する場所まで痰をあげられないので、そこまであげてやるのが肺痰の介助という事になります。 体の向きを小まめに変えてあげる(体位変換)、30~40分おきに体位変換しながら吸引して背中をさすってあげたり、痰を促すお手伝いをしますが、常に夜中でも行う必要があります。 ほかにも体温調節、経管栄養とか常にあります。 見ていなくても耳でなんか変化があるのかどうか気を付けています。
特別支援学校の中学部に所属しています。 先生が週3回自宅に訪ねてきてくれます。 1回100分の授業を週3回受けて居ます。 ほかにスクーリングと言って学校に行って友達と一緒に授業を受けたり、運動会、文化祭などの行事には学校へ連れてゆくこともあります。 凄く集中力があり、新しいことを学びたいという意欲が凄くあります。
今年1月帆花さんが3歳から6歳までの西村家の生活を追ったドキュメンタリー映画「帆花」の公開が始まりました。 当時、監督が映画学校の学生で、卒業制作のために撮らせてほしいという事でした。 1年間では撮り切れなくて、一本の映画にしたいという風に変わりました。 3年間かかって撮影が終わり、結果7年経ってしまったというところです。 國友勇吾監督です。 ケアがうまくゆき始めた頃で、家族の始まりの物語だと私は思っています。 辛いことも沢山あったので観ると切なくなったり、懐かしかったりします。 今観るとケアが未熟だったと思います。
帆花がお腹の中にいる間は元気に動き回っていました。 分娩台に乗って先生が見た時に、先生が血性羊水だとおっしゃって分娩室の雰囲気が変わりました。 先生が馬乗りになり、私のお腹をボンと押し帆花が出て来ました。 すぐに運ばれてゆき帆花に会えたのは生まれてから4時間後ぐらいでした。 会う前に先生からの説明があり、10分間の心肺停止があり、蘇生はしたがこれから生きて行かれるかという事は5分5分だと宣告されました。 面会するとほわーっと穏やかな顔をしていて全く辛い顔ではありませんでした。 担当した看護師さんはこの子は必ず生きるというふうに話してくださいました。
帆花を元気に産んで上げられなかったことに対して悩み、その後私は鬱と診断されましたが、今の状況を一緒にすることは辞めようと思って、帆花が生きようとしている赤ちゃんだという事が心に入ってくるようになりました。 私も現実を受け止められるようになりました。 9か月後に在宅で過ごすことにしました。 障害者手帳を交付していただきたかったが、障害が固定しないと発行できないという事だったが、説明して生後4か月の時に取得しました。 24時間の介護という事で、主人と二人で毎日3,4時間の睡眠時間で介護していましたが、寝室に行っても気になって寝付けられませんでした。 帆花の検査入院の時に私も倒れて入院しました。 在宅7年(帆花が2年生)が経ったときにも2週間入院しました。 8年間ベッドで熟睡したという事がなくて力尽きて入院しました。 帆花を預けるという事が難しい状況で、主人が1か月間仕事を休むという事になり、在宅のチームの人にも助けていただくことになりました。
自分の分量が多すぎたことに気が付きましたので、ヘルパーさんたちに荷なっていただくようにしました。 今は週に3日は寝室で眠れるようになりました。 ブログをやっていましたが、帆花や私への誹謗,中傷がひどくなってきた時期があり、機械を使って子供を無理やり生かしているとか、脳死に近い状態だったら臓器を提供しろとか、嘘を書くなというような内容でした。 そんな折に、やまゆり事件(相模原障害者施設殺傷事件)、意思疎通ができない方々が沢山亡くなったという事件でした。(2016年) ショックだったのはあの事件の受け止め方ですが、自分たちとは関係ない障害のある人たちが殺された事件というような、多くの人が線引きして見てるという風に強く感じて、それがショックでした。 私自身も障害が軽い人の施設は増えて行っているのに、帆花のような重度障害は充実しないのだろうかと、比較している自分もありました。 (自分のなかにある差別の感情に気付いた。) 3年間閉ざしてしまったような時期もありました。 新しいヘルパーさんが来たことをきっかけに、徐々に生活が回り出したという事でいい方向へのきっかけになりました。
小さいころから生きることはどんなことだろうとか、考える変な子ではありました。 父が出版社の編集者だったので、家には沢山の本がありました。 小学校入学前に、友達と遊んでいて、和式のトイレに入りました。 ペダルを踏んで水を流している時に、急に生きているって何だろうと思いました。 思春期になってよりよく生きるという事はどういう事だろうとか、生きている価値とは何なのかという事を考え始めていましたが、帆花が生まれてからは、よりよく生きるとか、人の助けになるとかに価値があるとか、考えていましたが、帆花は何をするにも人の助けが必要で、その姿を見た時に、情けないとか、なんで何にもできないんだとは思うどころか、生きてる、そこに命があるという事自体が、素晴らしいんだという事に気付かされて、よりよく生きるとかなんて偉そうなことを考えてたんじゃないのかと思いました。 今自分があるという事に感謝するという事もしないで、命があってそこにあるという事自体が本当に素晴らしくて、それがかけがえのない事なんだという事を、帆花によって気付かされて、よりよく生きるとか今まで考えていたことを一旦白紙に戻されました。 健康なので自分一人で生きてきたような感覚はあるかもしれないが、人と人の間で生きてこれたという事に気付かなかっただけで、それを帆花に気づかされたという事だと思います。
毎日小さな感動に満ち溢れています。 日々小さな幸せを感じながら過ごせています。 お互いの意志を確認しながらやってきています。 知らないという事が線引きをしてしまうという事につながると思うんです。 知る機会がないという事がおうおうにしてあるんですが、私たちは聞かれたくないという事は別にないです。 知っていただきたいのは帆花が生きている、言葉はしゃべらないが帆花から発する、存在、帆花が生きているという事実をあの子が言う事が一番大事なので、あの映画で実現したのかなあと思います。 一番の願いは、私と主人が帆花のケアを引退して、助けてくれる、この人と生きて行きたいという支援者に出会って、自分の意志を組み取ってもらいながら生きて行ってくれればなあと思っています。 親の手を煩わしたくないという事をそろそろ思うんですね。 そういう風には思わせないという事が一つ、親の手を離れて人の思うように自分の思う人と生きて行ければいいなあと思っています。