三宅義行(元女子重量挙げ日本代表 三宅宏実の父 メキシコ五輪重量挙げ銅メダリスト 日本ウエイトリフティング協会会長)・【アスリート誕生物語】
三宅宏実さんが現役を引退され、今年からは日本オリンピック委員会JOC)のアスリート委員として活躍しています。 アスリート委員は選手の声をIOCに反映すること。 コーチ、監督とのギャップを埋めるためにつくられました。
三宅宏実さんは2012年ロンドンオリンピック48kg級銀メダリスト、2016年リオデジャネイロオリンピック48kg級銅メダリスト、夏季五輪において日本女子最多に並ぶ5大会連続出場を果たしました。
子供の頃は普通の子でした。 運動神経は普通でした。 妻がピアノをやっていたのでピアノを習っていましたが、なかなか前に進まないような感じでした。 最初は期待をすればするほど怒りたくなるのですが、それは指導者の自己満足で選手にはプラスにならない。 最初の1,2年は怒ったりしていましたが、怒っても何も生まれない、だったら褒めてのばした方がいいということで、褒めながら伸ばすという事に切り替えました。 練習場に何度か連れて行きましたが、絶対やりたくない、という環境でした。 2000年のオリンピックに間近の人が出たもので、私もやってみたいという風に変わったのではないかと思います。 当時は選手のいろいろな状況を知っていたので、重量挙げはやってほしくはありませんでした。 むしろピアノをやってほしいと思っていました。 男兄弟2人と娘がいましたが、こちらからやるようには特には言いませんでした。 次男は重量挙げをするようになりました。
2000年11月から競技をやりたいという事で始めて、3か月間続けたら続くかなと思っていました。 重量挙げのある埼玉栄高校に進学させました。 条件をだしました。 絶対最後まであきらめない。 オリンピックでメダルを取るまで、金を取るまであきらめない、でした。 それが出来るんだったら真剣に教えてやろうと思いました。 平成13年に定年なので、この子のためにやろうと思いました。 9か月後には全国高校選手権53kg級で優勝、3年後には全日本選手権で初優勝を果たす。 記録が伸びると面白い、だから練習もできるという相乗効果があります。 自分の心に勝つという事が大事です。 不安を払しょくするためには練習しかなく、宏美はつらくても練習から逃げませんでした。痛くてもつい練習を重ねてしまいます。 痛いところに自然と手がいきますから、それを読んでおかしくないかと声を掛けます。 ロンドンが終わってリオへ行くまでの4年間は毎日が葛藤でした。 練習をして自信を掴むしかないんです。 痛めたところはやらなくてもいいから,痛くないところを一生懸命やろうという事でやってきました。 1週間休むと元の身体に戻るのに3週間かかってしまうので。(女子の方が長くかかる。)
2004年アテネ大会出場。 それまでには3年半しかなくて、学校以外に家で土、日に練習をさせました。 普段の日は家で出来る種目をやらせました。 食事に関しては妻がトレーニングセンターへ1か月間通ったりして情報を仕入れてきたりして、作っていきました。 2004年アテネ大会(19歳)は9位、2008年北京大会は6位でしたがドーピング問題で4位となる。 金と銀では凄く差があると思いますが、銀と銅はほとんど同じだと思います。 銅まではメダリストだがそれ以下はオリンピック出場者という事になります。4位も6位も同じだと思いました。
自分自身への歯がゆさからか、突然いなくなりました。 沖縄に行ったという事でした。 一人のアスリートを育てるためにはみんなの力が必要だという事がわかったんじゃないんでしょうか? 1週間後に帰って来ました。 「お帰り」と言って迎えました。 ロンドンでは女子重量挙げで初の銀メダル、その後怪我との苦しみのなか、リオデジャネイロ大会では銅メダルでバーベルにハグをして拍手を浴びました。 怪我との戦いの中、2018年全日本選手権で優勝。 ドーピングの問題でルールが変わって18か月で6大会を義務付けられ過酷でした。 6大会という事がうまくコンディションを作れなかった一つの理由だと思います。(怪我があったのでなお厳しい) 2020年9月に腰の疲労骨折が判明。 12月の全日本選手権は欠場。 5度目の東京オリンピック出場となる。 オリンピック開催の問題もありましたが、ステージに立てたのは良かったと思います。