2022年2月26日土曜日

赤坂憲雄(民俗学者)          ・【私の人生手帖(てちょう)】

赤坂憲雄(民俗学者)          ・【私の人生手帖(てちょう)】 

震災時に福島県立博物館館長を務めていた赤坂さんは復興構想会議委員として、震災や原発問題に積極的に発言してきました。  1953年東京生まれ、1992年東北芸術工科大学助教授。1999年4月に東北文化研究センターを設立してセンター長就任、柳田國男とは違った視点で「東北学」を提唱しました。 何故「東北学」を立ち上げたのか、大震災を経て改めて東北をどのような観点から見つめているのか、ご自身の人生とどのように重なっているのか、など伺いました。

3月11日は何度も体験してきていますが、10年目の時には取材をしたかったのですが、コロナで出来ませんでした。  無力感に苛まれるというのが毎年の3月の迎え方ですかね。   諦めたらすべてが終わるという事を、肝に銘じているというか、そういうふうに感じて考えている人が沢山いるのではないかと思っています。    水産業の若者が「みんなの海」と言ったんですね。   「みんなの海」としてこの海に向かい合わなければ、前に行くことができない、だからこの若い世代は横の連携、仲がいいんです。    震災の年の5月に僕は南三陸町の新渡戸という漁村を訪ねています。   湾に囲まれた小さな漁村で津波に完全にやれてしまっています。  高台にすぐに非難してほとんどの人は助かっているんですが、鹿踊り(ししおどり)、民俗芸能が江戸時代から伝えられてきた村なんです。  鹿踊り(ししおどり)のリーダーの男性から話を伺った時に、避難所に彼はいたんですが、鹿踊り(ししおどり)の太鼓とか衣装の民俗芸能に関わるものを流されてしまったので捜したんですね。  見つけて5月の連休の時衣装を洗い清めたり、足りないものはよそから送ってもらたりして、鹿踊り(ししおどり)を避難所で踊ったらしいです。  そうしたら女性たちが初めて涙を流したという事を聞きました。  民俗芸能って何だろうと考えました。  単なる娯楽でもないし、単なる芸能でもないんですね。   民俗芸能によって励まされたり、癒されたり、支えられてきたという歴史があるんですね。   鹿踊り(ししおどり)というのは鹿の供養なんですが、人間達の供養とか鎮魂という事がテーマなんですね。  たくさんの死を抱えながら生き延びる事を繰り返してきたのが、東北の人たちかなあと考えました。   

父親が福島の白河郡の出身で炭焼きをしていた、という事が僕におおきな影を落としていたと思います。  事業に失敗して東京に出て来ましたが、静かな親たちでした。   本はよく読みました。 高校時代は図書館で、大学生になってからはバイトをして、物書きとなってからは印税とか入りましたが、ほとんど本に化けちゃいました。  ちょっとした図書館ぐらいは自宅にあります。  本を読むときには線を引きます。  古本屋に柳田國男全集がありそれを買いました。 当時4万5000円でした。  書棚において眺めたり読んだりしているうちに、柳田國男論を書いたり、民俗学の世界に足を踏み入れて行くきっかけになりました。   父親の人生を理解したい判りたいという思いはあったと思います。  

38歳の時に「柳田國男の発生」という連載を始めました。  編集者から柳田國男に関わる旅をして下さいという条件を言われました。  その最初が遠野でした。  違和感を感じました。  常人は稲作中心なんです。 しかし旅をしてみると村中で炭焼きをやって居たり、木こり、狩猟をやってる風景が当たり前にみられるんです。  それから20年ひたすら東北を歩いていました。  稲を作る日本辺境ではなく、もう一つの文化圏がある中の一つとして東北を浮かび上がらせてみたかった。  それが「東北学」だったと思います。    山菜、キノコを取ったり、狩猟、川で鮭を取るとか、実は縄文時代の東北の暮らしなんですね。  縄文人の暮らしの伝統、知恵、技が今でも東北には生きているんじゃないかと思ったんです。  300人ぐらいの人生を描きました。 

こちらが裸になって話を聞きましたので、あまり苦労はしませんでした。   脳梗塞で倒れたことがある15歳の時の父親から教わったという炭焼きの話を聞いた時には最高でした。   ろれつが回らないとか関係なく、言葉って心できいているんだと思います。   耳を傾けるなかで、ああっ生きるっていいなあとか、生きるってそれだけで凄いことだなあと感じる瞬間はたくさんありました。   それって岡本太郎さんが感じ取っていた東北なんですよ。   岡本太郎さんが書いている本の中で「生活と生命」という言葉を使うんです。  僕が聞き書きで感じ取っているものと重なっていました。   太陽の塔の中には地球の生命の歴史をらせん状に辿るような作品です。  

大震災の後1年半はひたすら東北を歩いていました。   何が起こったのかを目に焼き付けておきたかった、聞こえてくる声に耳を傾けていました。   ふっと気が付くと至る所に花が添えられているんです。  震災で亡くなった人たちへの供養の花です。  死者を悼む、死者を鎮魂する文化が至るところであります。  新渡戸という漁村の高台に鹿踊りの供養塔があり、「生きとし生けるものすべての命のためにこの踊りを奉納する」と刻まれています。  

福島県立博物館館長を17年間してきて、後半は震災でミュージアムと災害をテーマにいやおうなしに考えざるを得なかった。  その後ライフミュージアムプロジェクトをずーっとやっているようで、災害をどういう風に記憶を引き受け、記録すると言った現場で何をする事が出来るのか、という事がテーマになってきた。  最後は奥会津で仕事をしたいと思っています。  奥会津ミュージアムを作ろうと思っています。