南果歩(俳優) ・自分で自分を幸せに
「乙女オバさん」というエッセーを2月に出版しました。 乙女心も自分の内側にありまして、夢見る気持ちを忘れない心と思っていて、乙女オバさんはそんなにかけ離れているものではないと思っていて、自分を表す言葉としてはかなりヒットするんです。 50代になっても折り返し点が見つからず、人生はそのまま自分の道を進むだけなのかなと気づきました。 このエッセーは私の失敗談をまとめたものと思っていいと思います。 失敗は私に何かサインを送ってくれていたものだと思います。 うまくいかなかったことは後でお薬として自分の心が持ち続けるんじゃないかと思います。
兵庫県尼崎市で生まれました。 五人姉妹の五女でした。 大勢がいる事には全く苦にならない環境でした。 泣き虫でした、泣いて自己表現していました。 小柄でやせっぽちで、虚弱体質でした。 元住んでいた家は門から玄関まで並木がありました。 裏庭にも日本庭園があり広い家に住んでいました。 小学校2年生の時に、父が倒産して2DKのお風呂のない家に一家で住みました。 母の店を長女は手伝うという事で大学を途中で辞めて大変だったと思います。 高校の時に踊りをやっていましたが、何かが足りないと思って、それは言葉でした。 桐朋学園大学短期大学部演劇科に進みました。 東京で初めて見た映画が「泥の河」(宮本輝の小説)という小栗康平監督の作品で、衝撃を受けました。 その後日本の名作を観だしました。 映画のストーリー自体、私の生い立ちと重なるところが沢山ありました。 映画「伽倻子のために」は在日朝鮮人作家、李恢成の同名小説を映画化したもので、私自身在日3世なので、伽倻子は在日の養父母に育てられた日本人の少女で、伽倻子とは合わせ鏡のような人だと思いました。 新聞記事に一般公募の記事があり、『伽倻子のために』のヒロイン役のオーディションを受ける時には自分の姿形をした伽倻子しか思い浮かばないという状態でした。 この役は自分しかいないという思いでした。 2200人の中から選ばれ、主役で映画デビューしました。 演じることがこんなに辛くて、自分のふがいなさを突き付けられるものかと思いました。
涙が出るシーンで小栗監督が激怒して出て行ってしまって、どこがそう悪いのか判りませんでした。 翌朝同じシーンがあり、監督から「涙が出た後にお前は、あっ出たと思っただろう」といったんです。 「映画というものは表面だけを写しているんじゃない、写っている役者の心根まで写るんだ」と言われました。 「涙を流すシーンで涙は流れていなくてもいい、心が泣いていればそれでスタッフはちゃんと撮るんだ、一番肝心なところを忘れていたあの演技に俺は怒ったんだ」という事を説明してくれました。 ド新人の私に、俳優として生きてゆく中で最も大事なことを、その時に小栗監督は身をもって教えてくださいました。 1986年9月には坂東玉三郎演出の『ロミオとジュリエット』のジュリエット役をオーデションでつかみ、初舞台を踏む。
31歳で出産して自分のなかで変化しました。 仕事との両立は大変でした。 30代はシングルマザーとして過ごし、40代で2度目の結婚をしました。 その10年後に乳がんが見つかりました。 まさかという思いがありました。 摘出手術をしました。 その後2度目の離婚という事になりました。 全てが信じられないような、自分が生きてきたことすら嘘だったのかなあというような感じでした。 このままではいけないという、自分で自分を励ますような声が聞こえてくるんです。 自分の人生を顧みる時間になっていたんじゃないかと思います。 怒りを通り越した感情を味わってしまったので、涙も出ないし怒るという事もできないです。 本当のショックを受けるという事は感情を失う事なんでしょうね。 勧めがあり診断を受けました。 健康は病気になってみるとどれだけ尊いものか判るし、命というものを考える時間を、私は、出産と乳がんの2回与えられていたという事が支えになったと思います。
今は独り身なので、時間は自分のために使えます。 20代に戻ったような感覚です。 アメリカのオーディションを受けていて2021年に『PACHINKO』というドラマが世界配信されます。 Nicochans(ニコチャンズ)というバンドを始めました。 私が作詞してバンドが作曲をして「乙女オバさん」を作ってしまいました。 水着の写真も撮りました。 ホリ・エージェンシーから独立して仕事を進めて行きたいと思って独立しました。