2022年2月19日土曜日

辻󠄀明俊(興福寺執事兼境内管理室長)   ・興福寺、五重塔から眺むれば〜令和の修理を前に

 辻󠄀明俊(興福寺執事兼境内管理室長)  ・興福寺、五重塔から眺むれば〜令和の修理を前に

興福寺の五重塔では新年度から120年振りという修理が始まります。   工期は7年ともそれ以上ともいわれていますが、補修は技術や記録が継承される意味でも大切な作業だと言われています。   興福寺執事で境内管理室長の 辻󠄀明俊さんにこれまでのあゆみと令和の修理でなにがおこなわれるのか伺いました。

五重塔は室町時代に再建された建物です。  創建は今から1300年前の710年に興福寺が創建されました。  五重塔は730年に建てられました。  合計5回焼失しています。  室町時代の再建なんですが、古い形、技法を堅持しています。  幕末までこのお寺の南側に奈良時代の塔が立っていましたが、残念ながら火災で焼失しまいました。  室町時代に奈良時代の塔を参考にして建てたので、古い形を踏襲することが出来たと伝わっています。  高さは50.1mあります。  古代インドにおいて仏舎利(釈迦の遺骨)を祀るために紀元前3世紀頃から造られ始めたストゥーパに起源をもっています。  古代インドのストゥーパは饅頭形(半球形)のものであったが、この形式が中国に伝えられると楼閣建築の形式を取り入れて高層化するようになった。  ストゥーパが卒塔婆になって、略されて塔婆が塔になりました。本来はお釈迦様の仏舎利を奉安する信仰のものとして建てられました。  

初層には12体安置されていて、西側に阿弥陀如来三尊像が安置されてます。 北側には弥勒菩薩三尊像、東側には薬師如来三尊像、南側には釈迦如来三尊像が安置されています。  下側には心礎と呼ばれる石の上に心柱があります。   心柱は周囲が260cm、直径83cmとなります。    心柱は3本でつながれていて、相輪を支えるような形で柱が立っています。   1階の天井の上は2層部分から5層まで吹き抜けになっています。   

五重塔の再建は1426年6月に上棟となっています。    大きな大火は2度ありまして、永承元年(1046年)12月24日の大火では北円堂を残して全山が焼失、1180年治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平重衡による南都焼討による伽藍全焼しています。  興福寺の再建には①場所を変えない、②創建時と同規模、③古式古様を踏襲する、という3つを守り続けてきました。   1717年に焼けた後は中金堂の再建がなかなかかなわなかった。   その後100年で復興するが3つの条件はかなわず、一回り小さいものになりました。    慶応4年(1868年)に出された神仏分離令では興福寺は大きな打撃をこうむりました。  2万1000石の石高を持っていたが、興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は早々と還俗し、、83か寺の子院、6つの坊は全て廃止され、僧は全員自主的に還俗し、管理者不在となり、近隣のお寺西大寺唐招提寺に興福寺の管理をしていました。 一乗院は奈良県庁とされ、大乗院や大半の子院は解体された。  中金堂は国に没収され、警察署や奈良県庁、郡役所に使用されました。    太平洋戦争では仏像疎開が行われて、阿修羅像とか八部衆などが吉野の民家の土蔵の方に移りました。  

発掘が終わったばかりで、今埋め戻しています。  空襲で焼けることはなかったです。 進駐軍が来て五重塔の相輪に電飾を付けろという事になりました。(飛行機の接触回避のため)   興福寺は国宝の仏像としては日本でも一番多いです。  東金堂も5度被災しています。  中のご本尊は室町時代で日光月光は白鳳時代、文殊、十二神が鎌倉時代、四天王像は平安時代、御本尊は室町時代と時代がバラバラです。  火災があるたびに仏様をお運びして、お堂が再建されると元に戻すという事をしてきました。   10年以上前ですが、境内に大きな煤が落ちていました。  近隣で火災があった様でした。  大地震での揺れについても解析が行われていて、いろいろ判って来ると思います。   修理のための調査をしていて、五重塔は常時微震しているらしいです。   3次元計測してどのように損傷しているのか、調査しています。  非破壊検査ができる事が大きいですね。

修理では約10か月をかけてまず屋根かけをします。  令和5年から着工して7年から10年で修理完了と言われています。   心柱が入手できるのかというようなこともあります。五重塔の調査、修理から何が判るか、注目していきたいです。