梨田昌孝(野球評論家 元プロ野球監督) ・〔スポーツ明日への伝言〕 最後の猛牛・近鉄の魂を受け継い
梨田さんは1953年(昭和28年)島根県浜田市出身。 島根県立浜田高校を卒業後1972年ドラフトと2位で近鉄バッファローズに入団、17年の現役生活でベストナイン3回、ゴールデングラブ賞4回獲得するなど、リーグ屈指の強肩のキャッチャーとして活躍、1979年近鉄球団初のリーグ優勝、更に翌年リーグ連覇に大きく貢献しました。 引退後はコーチ、二軍監督を経て、2000年から大阪近鉄バッファローズの監督として指揮をとり、監督2年目にチームをリーグ優勝に導きますが、球団合併により近鉄球団は2004年55年の歴史に幕を下ろし、梨田さんは近鉄最後の監督となりました。 その後北海道日本ハムファイターズ、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めて、監督として通算805勝を挙げています。 この間現場から離れた時にはNHKの野球解説者としてわかり易く親しみ易い解説を聞かせていただいています。 2020年の春には新型コロナウイルスに感染、重症化して一時は集中医療室での治療が続きましたが、幸いにも一命をとりとめて、現在はお元気に御活躍中です。
近鉄がプロ野球からなくなって20年になります。 近鉄は弱いんですが、自由奔放にやったという気がします。 電鉄として400kmあまりあり、凄いと言う感じはありました。(知名度は低かった。) 子供の頃は広島カープのファンでした。 個人的には長嶋さん、王さんのファンでした。 セリーグはメジャー、パリーグは二軍と言うような感じでした。 ドラフト2位で、1位は佐々木恭介さんでした。 3位が橘健治さんほかそうそうたるメンバーでした。 2,3年後には47年に入団した選手は5人スターティングメンバーにでているというほど、当たり年のドラフトでした。
2年目が終わったところで西本幸雄さんが監督になりました。 ここからチームが変りました。 私と羽田が挨拶に行った時に「3年後にお前たちを1000万プレーヤーにする。」とおっしゃいました。 妥協しない方でした。 雪が降っても雨が降っても練習を途中で止めるという人ではありませんでした。 情熱、愛情は感じました。 1979年球団初のリーグ優勝がありました。 リーグ優勝がかかる相手が阪急ブレーブスでした。 阪急には近鉄は弱かったんですが、逃げて打たれる、得意じゃない球で打たれるのが、キャッチャー、ピッチャーとしても不本意だと思って、最後のバッターにシュートを選んで正解だったと思います。 リーグ優勝に慣れていなかったので、実感がなかなか湧いてこなかったですね。
1977年入団6年目にファールが右手中指にあたって、根元が亀裂骨折をしました。 強肩でしたが、山波のボールしか投げれなくなりました。 なかなか可動域ももどってきませんし、腫れも引きませんでした。 盗塁させないためには、まず強肩ですが、次に取ってからすぐ投げる、三番目がコントロールよく投げる、四つ目ボールの回転のいい球を投げる、という事を考えました。 取ってからてのひらを上手く使って早く右手にボールを移す練習を何万回、何十万回とやって、又左足を25度ぐらい前に出して、ステップの角度を小さくして投げれるようにしました。 投球時間が早くなってきて、段々指の可動域ももとに戻って来ました。 盗塁を段々刺せる様になってきました。 盗塁阻止率は5割3分6厘と言う数字はパリーグ歴代トップはいまだに譲っていません。 1979年優勝した年の対阪急線は阻止率が7割8分でした。(盗塁王の福本さんがいた。)
身体が硬いのと、構えからテークバックするときには普通は上がるんですが、下がる癖がなかなか直らなかった。 グリップを下に置いたら上がるしかないと思ってそれをやったのと、柔らかく見せるために手を振ってみました。 それが「こんにゃく打法」と言われるようになりました。
1988年に仰木監督に代わる。 前年に引退を考えていました。 仰木さんと話をして辞めると言ったら、「選手としては期待はしないが、コーチと選手のパイプ役をやって欲しい。」と言われもう1年やる事になりました。 あの1年が自分にとっては勉強になった1年でした。 「10・19」 この年は西武が強くて9月半ばで6ゲーム差をつけられていた。 近鉄が追い上げて行き、10月16日に西武が全日程を終了。 近鉄は残り4試合で3勝すれば優勝。 17日には阪急に敗れる。 18日にはロッテに勝つ。 10月19日にダブルヘッダーがありここで連勝すれば近鉄の優勝となる。 ロッテとの第一試合、3対3で9回で2アウト2塁で、ピッチャーが牛島投手に替わって、代打梨田となりました。 もうこの打席で辞めるつもりでした。 野球人生を振り返りながら、バッターって振らないと駄目だよな、と純粋な気持ちになれました。 初球がボール2球目をセンター前にヒットを打って、決勝点になりました。 第二試合が4対4、4時間まであと3分と言うところでキャッチャーとして登場。 引退してNHKの解説などをして、その後1993年近鉄にコーチとして戻る。 2軍監督を経て2000年に大阪近鉄バッファローズの監督として指揮を執る。 1年目は最下位、2年目はリーグ優勝。
2年目は機動力野球を封印しました。 チーム防御率が4,98でした。 ランナーを貯めて一発と言うように切り替えました。 逆転が多かったです。 チームが勝つためには何が最善かを考えていて、ポジションの移動なども考えて、いい結果が出ました。 胴上げをしてもらったのは、何とも言えない感動でした。 2004年に近鉄とオリックスが合併ました。 55年の歴史に幕を閉じることになりました。 辛かったです。 先の話が出来なくなると心も閉鎖的になる。 前向きな話は一切ない。 その時に僕が言ったのは「ボールは一個しかない。 3時間一個のボールに集中してくれ。」と言いました。「大阪ドームでは最後の試合だが、どのチームでユニホームを着ようが、今みんなが付けている背番号は永久欠番だ。 胸を張ってやってくれ。」といって、皆が涙してその場を去って試合に備えてくれました。