2024年6月21日金曜日

橘田智雄(貿易会社経営)        ・ALSの妻を看取って

 橘田智雄(貿易会社経営)        ・ALSの妻を看取って

6月21日は世界ALSデーです。 ALSと言うのは筋萎縮性側索硬化症と言って全身の筋肉が徐々に動かなくなる難病です。 国内におよそ1万人の患者がいると言われていす。   東京都内で貿易会社を営む64歳の橘田智雄さんはALSの妻の初代さんの在宅介護を8年続けてきました。 途中数年は実の母の遠距離介護も重なって橘田自身も心身に変調をきたしたと言います。 去年2月に初代さんが亡くなったあと、橘田さんが介護生活のあれこれを漫画に描いて、SNSで公開するようになりました。 ALSと言う病気について知って欲しいという思いと共に、今まさに誰かの介護をしている人たちに伝えたいことがあると言います。

妻がALSと診断されたのは2016年2月でした。 2015年の5月ぐらいから通勤の途中で、転んだりしました。 合気道をやっていて、道場で突然転んだりしました。 最初街中の整体、鍼灸とかに通いましたが、わからないという事で大学病院に行きました。 大学病院では妻のALSの進行は早いと言われました。 進行の遅い人もいます。(30年、40年) 途中で進行の止まる方もいます。 ALSと言う言葉さえ知らずにネットで調べました。 いろいろ症状が書かれていましたが、想像つかなかったです。  進行が早くて、その先取りをして対処するという事に気持ちがいっていました。  例えば声が出なくなるとしたら、新しいコミュニケーション装置を準備しなければいけないとか。 指が動かなくなるようであれば物理的にオンオフ出来るスイッチを用意するとか、でもそれも何か月かで使えなくなってしまいますが。 何か月ごとに次の対処を更新していかなくては駄目でした。 私が全て準備していきました。 

妻は小説の企画編集、配信をやっていました。 地方新聞の連載の企画をして、作者と交渉をして案を練って小説を書いてもらって、各地方紙に配信する仕事をやっていました。  在宅介護が始まるまで仕事は続けていました。 2016年の夏に石垣島に旅行に行きましたが、その1か月後に呼吸困難になってしまいました。 気管切開をして人工呼吸器をつけなければいけなくなりました。 口から食べられなくなるので胃ろうも付けることになりました。  コミュニケーション装置の練習などを含めて、9月頃から3か月入院しました。 その後に在宅が始まりました。(2016年11月)  妻の身体が動けるうちに旅行しようという事で、医療関係を考えて国内にしようという事になり石垣島に行きました。(バリアフリーツーリズムを展開していた。)  楽しい時間を過ごせました。 

人工呼吸器をつける手術では、声が出なくなりますが、手術としてはよくないが、空気がちょっと漏れて数か月は何とか声を出せて会話することは出来ました。 手に力があったころはパソコン画面に出てくる文字で、自分が使いたい文字がでてくるとスイッチを押すようにして、会話しました。 手の力がなくなると風船型のスイッチに替わってパソコンを動かしたりしました。 それが駄目になると視線が使えたので、視線入力(視線を感知するセンサーがパソコンのディスプレーの下についている。)で文字をピックアップして言葉、文章を作りました。 又パソコンに声を出させてコミュニケーションをとることもしました。 文字板での視線によるコミュニケーションの方法もやりましたが、先読みはするなと言われました。

病気に対する文句、嘆きは聞いたことが無いです。  それまで病院で妻の看病に関わってきた人たちから在宅介護に関わる人たちに対して情報を引き渡す会議があるんですが、その時に妻はパソコンの音声で自分の発言をしました。 「私はこんなに難しい病気であったのだから、他の人には見られない景色がある筈だ。 その景色を存分に楽しんでやろうと思います。」と言う風に言ったんです。  これはある意味私にとっては衝撃的でした。 病気に対して正面から向き合って行こうと思っているんだと思いました。 

仙台にいる実母の遠距離介護と重なっていました。(妻が転び出す1年前からスタート)  90歳間近になって、転び出したので、骨折をして寝たきりにはなって欲しくなかった。  二人の介護をするという事で精神的にもおいつめられました。 月に1,2度は行っていました。(父はだいぶ前に亡くなっている。)  私は一人っ子で介護者としては一人なのできつかったです。  母が2017年10月末に亡くなりましたので、妻の介護とは3年間重なっています。  躁うつ病、睡眠障害に悩まされました。 予想もしていなかった脊柱管狭窄症を患って背中が痛くなったり、足がしびれて動かなくなったりしました。(手術をして入院もしました。) 私も要介護者になっています。 

在宅介護になるとドクター、ナース、ヘルパーさんが来ますが、24時間、365日家にはヘルパーさんが来ます。  プライベートの生活空間に赤の他人(感謝はしていますが)が入り込んでくることは、体調にドンときました。  妻に当たってしまったこともあります。 妻は「身体を大事にしてね。」と文字盤でいったかもれないです。 近所には大学の先輩、同輩、後輩、友人などが住んでいて、その人たちが私たちを精神的に手伝ってくれたんです。 一番は私の話をよく聞いてくれたり、妻に話かけてくれたりしてくれました。  本読みプロジェクトを立ち上げて、名前を付けたのは妻です。 39人になりましたが、妻が読んでほしい小説、エッセーなど、自宅のスマホで録音して、クラウドにあげて、いろいろ操作をして、ブレットでヘルパーさんが操作をして妻が聞くという事です。  クラウドには数百点は上がっていると思います。 「本読みは私を私たらしめるもの。」と妻は文字盤に示しました。 本読みがあるから私が私で居られる。 生き甲斐であったと思います。 

妻は昨年の2月に亡くなりました。(介護は8年間)  進行性の病気に負けないように、次々起こることに対して、先取りをして負けないように頑張るという人生のやり方を得ました。 大勢の人に頼る、助けを求めて自分を励ましてやってゆく。 公的支援に頼るという事も大事だと学びました。 社会的介護が必要だと思います。 私が辿り着いた言葉は「離れればもっと優しくなれる。」という事です。 心、精神的な面で妻に、被介護者に寄り添ってあげる。

「主介護者」介護する側の一番責任を持たなければいけない人間。 漫画で「主介護者」というタイトルにしました。 一番伝えたいことは「貴方一人ではないんだよ。」という事です。 孤独にならないで欲しい。