小森美巳(元NHKディレクター・演出家) ・子どもに最高のものを届ける
小森さんは1933年東京生まれ。 父親の関係で現在の韓国に行きましたが、終戦後命からがら帰国、2年後ようやく東京に戻って日本女子大付属中学校に編入しました。 大学卒業後NHKに入局、当時の婦人課に配属され、その後プロデューサーとして1959年にスタートした「お母さんといっしょ」に携わりました。 3人目のお子さんの出産を機に1970年に退職しましたが、友人だった俳優の岸田今日子さんの誘いで、子供向け演劇の演出家となりました。 詩人の谷川俊太郎さんが脚本を書いた「おばけりんご」や劇作家の別役 実さんの「不思議の国のアリス」の「帽子屋さんのお茶の会」など、子供だけではなく大人も楽しめる舞台を数多く作り続けてきました。
91歳になりました。 演劇集団「円」と言うところに属していますが、若い演出家を何とか育てていかないと、子供ステージと言うプログラムが長続きがしないので、岸田今日子さんと始めて40年も続けてやってしまったもので、コロナでちょっと途絶えた後、若い演出家がなかなか出てこないんです。 子供についての考え方がまず違います。 私は小学、中学、一番感受性の強い時代に、本当に何もなかったですからね。(戦争) 終戦の2年前に韓国に行って、終戦になって引き揚げ者となって、それが大変でした。
父は男の子の名前しか考えていなくて、母の名前(美佐?)と父の名前(巳之助?)を一字づつとればいいということで「美巳」と言う名前になりました。 母が芝居が好きでいろいろ話をしてもらいました。 4人姉妹で全部女です。 私が長女で4人で芝居ごっこをしたりしていました。 3歳で「エノケン」の芝居を見たことがあります。 韓国に行く時には大きな船で4時間で行きましたが、引き上げの時には小さな船で7日7晩漂うわけです。 3日目には気持ち悪くてなにも食べられなくなりました。 博多に着いた時にはアメリカ兵が自動小銃を構えてずらっといました。 東京は焼け野原だったので、淡路島に1年ちょっといて、2年生で東京の編入試験を受けて、元に戻れました。
東京は敷石と雑草が生えていて、バラックがすこし建っていたりしましたが、むなしさを感じました。 学校は自由で楽しかったです。 演劇部でシェークスピアに入れあげてしまいました。 1年先輩に平岩弓枝(小説家)さんがいて、その一つ上に高野悦子(岩波ホールの支配人)さんがいて、演劇のことに関していろいろ楽しかったです。 大学では国文学を専攻しました。 古典よりも現代演劇に興味がありました。 高校2年生の時に新しいラジオ番組のオーディションがあり受けました。 番組のプロデューサーだった小谷節子さん(「おかあさといっしょ」を立ち上げる方)から一番元気が良かったから選んだという事だったらしいです。 その後NHKの婦人課に入りました。(江上フジさんが課長) 吃驚するような方ばっかりでした。 筒井啓介さん、飯沢匡(ただす)さんなどからは色々なことを教わりました テレビの実験放送が行われるようになって、どういったものか夢中になって観ていました。
『ブーフーウー』は、『おかあさんといっしょ』の初代ぬいぐるみ人形劇として、1960(昭和35)年9月から1967(昭和42)年3月まで放送。 黒柳徹子さん、大山のぶ代さん等の声で、音楽を担当したのが小森(後の主人)でした。 同期でも結婚、出産などを機に辞めてゆく人が多かったです。 長く続けている方はおひとりが多かったです。 私は子供が生まれても続けていました。 『おかあさんといっしょ』をやっていながら、子育てとの矛盾を感じるようになりました。 3人目の出産を機に1970年にNHKを退職しました。
舞台の仕事に興味を抱いていたところに、岸田今日子さんが子供に見せるいいお芝居をやりたいので一緒にやらないかと声がかかりました。 谷川俊太郎さんが書いて、私が演出して岸田今日子さんが製作をするという事が始まり、夢中になるわけです。 生身の人がその舞台で演じる事の感動は、ちょっと違うものがあると思います。 身体の中に残っていくと思います。 生活の中に、心に残ったことをひょっと、時間が経ってから話すという心地よさは、吃驚するようなものがあって、そういったことは絶対あった方がいいと思います。 勧善懲悪である必要はなく、何か疑問を残す、問題を残す、そういったものがいい形で残ってゆくものにしたらどうだろうという事になりました。 私にとって最高のものが子供にとって最高かはわかりませんが、一生懸命作ってこれを観てもらいたいというものを作りたいです。