2024年6月14日金曜日

吉田一平(ゴジカラ村 創設者)       ・みちくさしながら、ゆっくりいこうよ!

 吉田一平(ゴジカラ村 創設者)       ・みちくさしながら、ゆっくりいこうよ!

現在78歳になる吉田一平さんは、生まれ育った愛知県長久手市にゴジカラ村と言うコミュニティーを作りました。 ゴジカラ村のゴジカラは仕事を終わったことを指すアフターファイブの意味です。 効率の良さや結果だけを重視するのではなく、遠回りするもよし、それぞれの個性や存在を尊重し子供から大人まで障害のある無しに関わらず、だれにも役割を持って暮らす事を目指しています。 3ヘクタールある雑木林を中心とする村内には、幼稚園や託児所、高齢者施設、保健師や看護師を育成する専門学校や古民家が建ち並び、多世代の人たちが行き交います。 地域の人たちから一平さんの愛称で親しまれている吉田一平さんに伺いました。

遊戯が無く、自然が遊戯です。 歩いて行ける距離にいろんな施設があります。  5時までの社会はみんな追い立てまくられて、沢山仕事をしたり、いい成績をとったりして、そういう社会ではないところを作りたかった。 もっとゆっくりして,障害があってもいいよ、大丈夫と言うような空間を作りたかった。  私は商社マンでした。 時間=コストと言う社会にいました。(15年間)  昭和50年代になると身の回りが豊かになったが、更に走ろうとしてきた。 そろそろゆっくり暮らしたらどうなんだという事です。 

体調を崩して辞めて、地域に戻ってきたら、雑木林、田んぼなどがなくなって開発されて住宅にするという時代でした。  雑木林を残して子供たちをそこで遊ばせたいというのが最初でした。 33,4歳で地域に戻って、たいよう幼稚園を初めに作りました。    母親は昭和10年に長男を生んで、6人兄弟で4人の兄と姉が亡くなりました。 私は末っ子で病気がちでしたが、兎に角母親としては生きて行ってほしかった。 母親は馬車馬のように働いていまいたが、本当に貧しい暮らしでした。  私が5歳から25歳までの母親の日記があります。 田畑のこと、私のことがほとんどでした。 のんびり、ゆっくりせよと言い続けていました。 父親も勉強のことなどは言わないで真面目にやっておれと言っていました。 

会社を辞めた頃に、子供が金属バットで親を殺したとか、学校に行けないとか、いろんなことが起きました。 私はなんとか遊ばしてやろうと思いました。 生きていることがこんなに面白いというところを作ってやりたかった。 遊びは自分で探して自分で作るものです。 それがきっかけとなりゴジカラ村を作ることになりました。  人ってなんで生まれてくるんだろうと思いました。  後白河法皇によって編まれた「梁塵秘抄」の中の「遊びをせんとや生まれけむ。 戯れせんとや生まれけん。」(人は遊びをしようと生まれてきた。戯れにただ興じようと生まれてきた。)と言いうう言葉に出会って、遊ぶために生まれてきたんだと思いました。  3,4,5歳ぐらいまでに面白いなあという事があると、生きてゆく上の大きな軸をもって生きると思う。 

いろんな施設にも道草の食えるような空間を作って来ました。 山には葉っぱがあるが全部違うし、ゆっくり見たことが無い。 今の世の中は発達障害、認知症、などがあり、ちょっとゆっくり、ちょっと物事の習得が遅い、走っている人から見ると遅く感じる。 走っている人たちは走癖症だと思う。 走っている社会は許容力が無い。 おおざっぱな空気があると他の人が入って来ても許せる。 

昨年9月まで長久手市長を3期12年務める。 遠回りをすると大勢が楽しめる。 上手くいかないとみんなに役割が生まれる、という事を言い続けてきました。 自分たちでものを考えて自分たちで生きてゆく、基本的な暮らしのやり方が出来なくなってしまう。 東日本大震災があった年に四国のお遍路に行きました。  1200km、40日間一日30kmをひたすら歩きました。 市長を辞めてもう一度行ってみたいと思って行きました。 いろいろ感動しました。 一回目はひたすら歩きましたが、2回目はスマホがありいろいろ情報が入り、いろいろ考えて、人は情報で苦しめられることを知りました。 雑談からでてくる夢とか、道草を許せる心があるところを作て行きたい。  だいたい、ぼちぼち、ゆっくりでいいから、違う種類の人が混ざって暮らす時に、だいたい、ほどほど、まあまあ、と言うのがキーワードです。  雑木林は未完成、未完成はいいね楽です。