2024年6月24日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 没後100年フランツ・カフカ

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 没後100年フランツ・カフカ 

フランツ・カフカは1883年生まれ、1924年6月3日に亡くなりました。 フランツ・カフカは20世紀最高の作家の一人と言われ、世界のさまざまな作家に影響を与えています。

「或る人物に対する後世の人たちの判断が同時代の人たちの判断よりも正しいのは、その人物がもう死んでいるからである。 人は死んだ後に初めて一人きりになった時に初めてその人らしく開花する。」   カフカ

カフカはチェコ出身に小説家で、変身審判』『』『失踪者』『流刑地にて』など があります。  20世紀最高の作家の一人と言われ、世界のさまざまな作家に影響を与えています。 今年カフカ没後100年になります。 

時代ごとにどういう人が凄いかは時代によって変わって来る。 殿様に忠誠を尽くすとか、革命をするとか、お金を儲けるとか、時代によって異なる。 でもそのずっと後に時代になると、そういった基準は意味がなくなって、そういう基準では判断されなくなる。 普遍的な視点で見られる。  バッハの生きていた時代にはバッハの音楽は時代遅れといわれていた。 亡くなって忘れ去られてしまって、再評価されたのは没後100年ぐらいです。  カフカも没後100年で、より純粋に味わえるのではないかと思います。 

「家庭生活、友人関係、結婚、仕事、文学などあらゆることに私は失敗する。 いや、失敗する事さえできない。」  カフカ

失敗するという事はなにかに挑戦するから失敗もするわけですが、何もしなければ失敗することもない。 失敗するという事は行動が前向きなんですね。 

「僕は一人で部屋にいなければならない。 床の上に寝ていればベッドから落ちることが無いと同じように、一人で居れば何事も起こらない。」  カフカ

仕事をしないと生きて行けなかったが、カフカは仕事をするのも嫌がった。 

「仕事に行こうとすると、故郷を去らねばならない人の悲しさに襲われる。」 

「都会の路地を引きずられてゆく生まれて間もない臆病な子犬と変りない。」

カフカは仕事はちゃんとやって出世もしている。 カフカが務めていたのは労働者傷害保険協会(半官半民の役所)で、弱い人への共感が凄く有って、労働者が怪我をしてやってくると、仕事を適当にやるわけにはいかなかった。 カフカが任された仕事は、仕事中の事故を無くすための活動をすることで、事故が減れば保険金も払わすに済むので、会社のためになる。  カフカは心配性なのでこういう仕事はもってこいなんです。 

カフカが出世して給料も上がった時の言葉                              「将来に向かって歩くことは僕にはできません。  将来に向かってつまずくこと、これは出来ます。  一番うまくできるのは倒れたままでいる事です。」  カフカ

「彼女無しでは僕は生きていけないし、彼女と一緒では僕は生きていけない。」 カフカ   

カフカは3回婚約して3回婚約破棄している。 生涯独身となる。 結婚願望は強かった。 

「僕は結婚と子供とを或る意味では、地上で努力して手に入れる値する最高のものと見なしています。」 カフカ

「何故僕は結婚しなかったのでしょうか。 結婚を決意した瞬間からもはや眠れなくなり、昼も夜も頭がカッカし、生きているというより絶望してただうろついているだけ、と言う状態に陥りました。 原因は不安、虚弱、自己軽蔑などによる漠然としたストレスです。」カフカ

カフカは決断することなく永遠に迷い続ける。 3回のうち2回は同じ女性なんです。 優柔不断も凄いですね。  それで先ほどの言葉が出てくる。 「彼女無しでは僕は生きていけないし、彼女と一緒では僕は生きていけない。」 この言葉は日記にも書いているし、友達にも、彼女への手紙にも書いている。  カフカは500通以上の手紙を書いていて会ったのは数回だった。 カフカは生身の人間が苦手で、手紙の恋愛が好きだった。 

「無駄な筋肉は僕にとって、なんと縁遠い存在だろう。」 カフカ

カフカは水泳は得意で、ボートも漕いでいたが、決して強くなろうとはしなかった。   強い父親への反発もあった。  相手の女性はフェリーツェと言う人で、家計を支えるために10代から働き始めた。 タイピストから始めて20代で重役にまで出世する。 当時は男性社会なので風当たりは強かった。  しかしカフカはそうは思わなかった。 男らしさ、女らしさにはこだわらなかった。  

カフカの友人のマックス・ブロートのお陰でカフカの本は世に出ることが出来た。 カフカはブロートに対して、書いたものは焼く様に遺言でブロートに伝えているが、焼かなかった。 カフカが焼く様に言っていたという、但し書き付きで出版し、得たお金はカフカの両親と最後の恋人に渡して、自分は一切受け取らなかった。  ブロートはカフカを世に知らしめたようにヤナーチェクも同様にした。

*ピアノソナタ 「1905年10月1日 街角より」 第一楽章 作曲:ヤナーチェク

「一方からは父が、もう一方からは母が僕の意志をほとんど破壊してしまった。 それは逃れようのないことだった。」  カフカ

父は貧しい境遇の中から、頑張って一代で裕福になってきた。 仕事もできて、経済力もあり、逞しさがあった。 カフカとはまるで話が合わない。 

父への手紙                                          「僕に必要だったのは、少しの励ましと優しさ、僅かだけ僕自身の道を開いてもらう事でした。 それなのに貴方は逆にそれを閉ざしてしまった。 もちろん僕に別の道を歩ませようとする善意からです。  しかし僕にはその能力がなかった。 例えば上手に敬礼したり行進したりしたりする僕を貴方は褒めて励ましてくれました。 けれども僕は未来の兵士ではなかったのです。  又よく食べて さらにビールさえ飲めた様な時、あるいは意味もわからぬ歌を真似たり、貴方の好きな言い回しをあなたの後について、かたことで言えた時、貴方は僕を励ましてくれました。 けれどもそんなことは僕の未来とは何のかかわりもなかったのです。」  カフカ

こういうすれ違いは悲しいです。 母親は優しかったが父親の味方だった。 

「幸福な人間は忘れています。 自分は歩いているのではなく、倒れているのだという事を。」  カフカ

順調にずっと歩いている気でも、いつ倒れるか判らない。 気が付いたら倒れていたという事もあるかもしれない。  失ってしまうといけないものを、それでも失ってしまうとどう生きて行っていいかわからない。 倒れるしかない。 


恋人のドーラと公園を散歩していたら人形をなくしてしまった少女と出会った。 人形を失ったという事は人形とこれからも生きてゆく」未来まで失ったことになると感じた。 カフカは人形はちょっと旅行に出ただけだと言って、次の日から人形は旅先から送って来る手紙を書いて少女に毎日渡した。  当時カフカは病状が重くなって、残された時間はなかった。  ドーラによると小説を書くのと同じ真剣さで書いていたという事だった。 3週間書き続けて、その結末は色々な人と出会ってその人形はしあわせな結婚をするという事だった。 それで少女は人形とはもう会えないと納得した。  僕(頭木)も難病になり、人生がひっくり返っったような感じでしたが、カフカに助けられました。 この番組〔絶望名言〕の成立のきっかけにもなりました。  

カフカはこれでよく生きて行けるなあと思いますが、その答えになるような言葉を最後に伝えます。

「救いがもたらされることは決してないとしても、ぼくはしかし何時でも救いに値する人間でありたい。」  カフカ