樋口恵子(評論家) ・機嫌よく90代を生きる(前編)
樋口さんは東京生まれの92歳。 東京大学卒業後、時事通信社、学習研究社、キャノンの勤務を経て評論家活動に入りました。 「高齢社会をよくする女性の会」理事長で介護保険の実現に力を尽くしました。 樋口さんは健康寿命と平均寿命の間のおよそ10年間を「よたへろ期」と命名し、痛いところだらけでよたよたヘへろへで頑張っている自分の姿を表現しています。 人生100年時代をどう生きるか、老いを豊かに機嫌よく90代を乗り切りたいという樋口恵子さんに伺いました。
私は身体が弱くて、中学1年で1年間休学しているんです。 悪くいくと駄目なほうに行く、上手く助かれば普通に生きられるという事でしたが、半分過ぎから上向いてきました。 兄が死んで一人っ子になっていたので 親たちも必死でした。
「老~い、どん」「どっこい生きてる90歳」「91歳、ヨタヘロ怪走中!」「老いの福袋 - あっぱれ! ころばぬ先の知恵88」「老いの上機嫌 - 90代! 笑う門には福来る」「90歳になっても、楽しく生きる」などの本を出版。 対談もやっていて「上手く老いる」( 和田秀樹共著) 和田さんは高齢者の側が90代、100代という年を喜んで迎えて、幸福な老後を過ごそうと言う事を声を大にしておっしゃっています。 私も同感していました。
「高齢社会をよくする女性の会」理事長ですが、皆で新しものに対応して、便利なものは便利なものとして使って行こうではないかという事で、若宮正子さんなんて本当にいいお手本だと思います。 「もう駄目」と言わないで、「まだできる」と思ってやっていきたい。 無駄な努力ができるのは歳をとった人の徳の一つではないでしょうか。
1932年東京生まれの92歳。 東京大学卒業後、時事通信社、学習研究社、キャノンの勤務を経て評論家活動に入りました。 東京家政大学名誉教授、その大学の女性未来研究所の名誉所長。 1983年NPO法人「高齢社会をよくする女性の会」の理事長になり、2000年の介護保険を実現、2003年に都知事選に出馬(70歳)、落選する。 上手く断ってしまえばいいとは思いましたが、損をするというのは覚悟の上でした。(大人の料簡) 100歳を生きるという事は大変生きているというだけで表彰状ですね。 84歳で家を建て替えましたが、へこたれました。 都知事選に出て一つの教訓があります。 厭なこともありましたが、人生100年挑戦していることはとってもいいことだと言ってもらって、とても嬉しかったです。 築30年木造住宅でした。 リフォームはしていましたが。 人生100年型の生活設計についてはまだ研究が十分ではないです。 少ない資源をみんなで分かち合って生きてゆくとすると、どういう分かち合い方、どういうシェアの仕方がいいのかという事は、人生100年の家庭生活を設計するのは今が初めてなんです。 いい知恵を集めてやって言って下さい。
どんなものにも品物なりの命があって、その中で自分が豊かに暮らせたのだから、ありがとうと言う気持ちになっています。 本なども捨てるのが大変でした。 1957年25歳で結婚しました。 翌年娘が誕生しました。 31歳で夫が亡くなりました。 1982年50歳の時に新しいパートナーとの出会いがありました。
「高齢社会をよくする女性の会」 普通の市民運動だと思ってやっていきました。 女性はあまりスキルに恵まれていないので、男性並みの年金を貰おうと思うと大変なハンディーがあります。 年金制度が男性中心に出来ている。 よりよい保障制度を作って行かなければならない。 介護保険制度もさっさと採り入れました。 1988年66歳で乳がんの手術をしました。 89歳の時にも二度目の乳がんの手術をしました。 どうやら克服しました。 「生涯現役一有権者、生涯現役一消費者」、「高齢者よ、大きな夢を描こう」と言っています。 夢も希望も無くなったらおしまいです。 生き延びて何をするかが問われている。 よりよい生き方をいくつ迄も探っていきたい。
和田秀樹さんもたいだんいなかで「高齢者よもっと人生を楽しもう」と言っています。 「幸齢者」になるための10の秘訣。 ①人それぞれです。 ②自分自身の基準でこれだというものを拾い上げる。 ③意欲は死ぬまで枯らさない。 ④老けたくなければ引退してはいけない。 ⑤しっかりいん・・?たけて腹9分目 ⑥財布は一生手放さず。 ⑦もっと自己主張を。 ⑧人とのつながりを認め合い、助け合う。 ⑨どんな状況でも誰かのために、と言う発想が自分を救う。 ⑩先の不安よりも今を生きよう、楽しもう。