2024年6月19日水曜日

岩本光弘(全盲海洋冒険家)        ・見えないからこそ、生きられる

 岩本光弘(全盲海洋冒険家)        ・見えないからこそ、生きられる

岩本さんは熊本県天草市生まれの57歳。 幼少期から弱視で、16歳の時に全盲になりました。 筑波大学理療科教員養成施設に進学し、在学中アメリカのサンフランシスコ州立大学に留学しました。 その後筑波大学の盲学校で14年間教員を務めました。 その傍らアメリカ人の妻の影響でヨットにのめり込んで行きます。 2006年ヨットが盛んなアメリカ西海岸のサンディエゴに移住します。 2013年にはニュースキャスターの辛坊治郎さんとヨットでの太平洋横断に挑戦しますが、航海8日目にクジラがヨットに衝突し、断念しました。  2019年再びアメリカ人男性と太平洋横断に挑戦し、全盲のヨットマンとして世界で初めて無寄港の太平洋横断に成功しました。

宮古島トライアスロン大会に出場、12時間の制限時間に対して11時間59分20秒でした。 2014年から始めました。 2013年に救命筏で11時間漂流したので、海が本当に怖かったです。  最初は海に顔を浸けられなかったです。 

13歳ぐらいから徐々に視力を失って行って、16歳の時に全盲になってしまいました。      徐々に目が見えなくなってゆくというのが本当に辛かったです。 恐怖と不安が入り混じっていました。  野球をやっていて飛んでくるボーrが見えないし、バッタボックスでも空振り三振して、苦しかったです。 見えないくなっているという事を言えなかった。(認めたくなかった。) 弟に助けられながら自転車を並走させたりしました。 自分で歯磨き粉を歯ブラシに付けられなくなったのが一番ショックでした。 歩いていても階段から落ちるようになって傷ついてしまい、母親が見かねて杖を渡してくれました。 「お前は目が見えなくなっていることを受け入れろ。」と言う風に聞こえました。 杖をつき返して、「なんで俺を生んだんだ。」と言い返しました。 この人生は誰かの迷惑にしかならない、と思って、自分が死んでしまえばだれかに迷惑を掛けることはない、と思いました。 

橋の欄干に両手と右足を乗せて海に飛び込もうとしました。 両手には力が入るんですが、右足に力が入らないんです。 何度もやりましたが。 昨夜寝れなかったし、疲れてきて公園のベンチに寝て、もう一回エネルギーを貯めて死のうと思いました。  すっと眠っていたら、私を養子にしようと思っていた叔父がいました。 叔父は天国に行ってしまっていて、その叔父からメッセージを受けるんです。 「お前が見えなくなったことには意味があるんだ。 見えないお前がいろんなことに挑戦することで、見えていても困難や苦難にいる人たち、何のために生きているのか判らない人たちに、勇気と希望を与えるためにお前は見えなくなったんだ。 自殺なんかしないで真っすぐ生きろ。 いろんなことに挑戦しろ。」と言うメッセージでした。 パッと目が覚めましたが、意味が分からなかった。 一つ思ったのは死んではいけないんだなという事でした。 自殺を諦めて家に帰って行きました。

いろんなことをやる中、或る時に富士山に登頂すること決めました。 友人とやっとの思いで頂上に着きました。 そこの光景を友達が説明してくれていました。 周りの人が僕が目が見えない事に気付いて、「凄いですね。 私たちはもっともっとやれますね。 勇気づけられました。」と言われた時に、叔父からのメッセージは本当だなと思いました。

鍼灸の技術を教えたいと思って東京行きました。 目が見えない事でのアパート探しから大変でした。 筑波大学理療科教員養成施設に進学しました。 アメリカの視覚障害教育を学びたいと思いました。 筑波大を休学しサンフランシスコ州立大学へ単身留学することを決心しました。 アメリカは障害があっても通常の学校で教育をすることに感激しました。  ただすべてが上手く行っているわけではないことも知ることになりました。 生活上いろいろ苦労もありました。

帰国後筑波大学附属盲学校鍼灸手技療法科の針灸教員に就任しました。 14年間教鞭を取らせていただいで、本当に楽しかったです。 生徒からの相談事にちゃんと対応できているのかわからないので青山学院の二部で心理学を学びました。 妻はアメリカ人で、僕がアメリカから帰国後、英会話スクールに通い始めて、英会話を教えていた先生の友達が妻です。妻が以前アメリカではヨットに乗っていました。 当時は稲毛海岸近くに住んでいて、散歩していたら、ヨットレンタルがあり、乗ってみることになりました。 妻に言われるままにやり屈辱感がありましたが、自然との一体感を感じ、続けることを決心しました。 

2013年にニュースキャスターの辛坊治郎さんとヨットでの太平洋横断に挑戦します。  3日までは順調で4,5日目ぐらいから台風崩れの低気圧にであって、5mの波と15mの風に苦しみました。  6日目(6月21日朝7時)大きな音がしました。 船が横倒しになりました。 海水が入ってきて救命筏に乗り換えて11時間漂流しました。 怖かったです。  全盲で無謀だという事で、いろんなメディアに叩かれSNSでバッシングを受けました。 6か月ぐらい鬱になりました。 安全であるためには一生涯家にいるように言われたのが一番つらかったです。 

2019年再びアメリカ人男性と太平洋横断に挑戦することにしました。 一度目では得られない感動が待っているんだと、その感動を得るために怖いけどもう一度挑戦しようと思いました。  「僕は見えるけれどもセーリングスキルはない、君には視力はないけれども、セーリングスキルはあるじゃないか。 お互いにできなところを補い合いながら逝けば我々の夢は絶対に実現するからいっしょにやろうよ。」と言われました。  一回目よりも大きな嵐に会いました。 低気圧は4,5個は覚悟していましたが、10個の低気圧に会い、本当に辛かったです。 お湯を沸かすことも出来ず、そうなると食事もできません。 クジラには祈るしかなかったです。  無寄港には意味があると思っていました。 4月20日に福島に到着しました。 その時には母親に僕が投げたロープを受け取って貰いました。  「なんで俺を生んだんだ。」と吐いてしまった言葉、その心の傷がスーッとなくなって行きました。  クジラを恨んだこともありましたが、その苦労があったから感動があったと思います。 

本当にいろんなかたがたのサポートによって、ここまで生きれました。 人だけではなく宇宙のエネルギー、ご先祖様などに助けられてここまで来ました。  天は僕をもう少し多くの人を人を救うために、あの太平洋で救ってくださったんだなと、もっともっと多くの人達の困難、苦難を乗り越えてゆく力を多くの人に与えたいと思っています。  環境が幸せにするのではない、自分の心です。 人と比べ始めるからいけない。 足るを知る、今与えられていることに感謝をして、当たり前をありがとうに変える時、人生は素晴らしいものになる。 幸福は自分の心の中にある、と言う風に思います。 海は包容力がある、海に話を聞いてもらう。  「ありがとう」を世界に広げる「グローバルありがとうプロジェクト」を通して、「ここにあることは奇跡なんだ」と「ありがとう」の言霊を通して自殺をなくし、子供たちに笑顔を与え、世界平和を目指すという事を目標に次のチャレンジをしていきたい。