2024年6月30日日曜日

栁川春己(パラリンピックマラソン金メダリスト・「光は見えなくても人生は明るい」

栁川春己(パラリンピックマラソン金メダリスト・「光は見えなくても人生は明るい」 

栁川春己さんは昭和31年佐賀県生まれ。 生後6か月で小児緑内障になり、8歳で視力を失いました。  佐賀県立盲学校卒業後、早稲田鍼灸院開業。 33歳でマラソンを始める。 バロセロナパラリンピックに初めて出場、 1996年のアトランタパラリンピックのマラソン競技で金メダルを獲得しました。 その後トライアスロンとかいろんなスポーツに」チャレンジします。 幼少期からパラリンピックで金メダル、世界の頂点に立つまでどんな思いで向き合って来たか、お話を伺いました。

6歳で盲学校に入学して、14年間お世話になりました。 小学校の頃は夕食後の自由時間に野球をするのが習慣でした。 生後6か月で小児緑内障になり、九大の病院に行って10数回手術をして九大の紹介で盲学校に入学するわけです。 ずっと一緒だった母親と別れることになり、その時には校長先生には大変お世話になりました。 鉄棒、柔道(最後は2段)をやったりして、身体を動かして汗を流すことが大好きでした。  野球はハンドボールぐらいの大きさのボールを使います。  ピッチャーが転がして、手を叩いた合図で打ちます。 鍼灸院を地元で開業したのは1980年です。  1985年に結婚し子供も生まれました。 野球は続けていました。 

マラソンの大会があるというので誘われました。 大分のチャレンジマラソンの3kmコースに出場しました。 17分58秒でゴール出来ました。 伴走者の方から又来年来るように言われました。(52歳の女性でした。)  諫早からきた川島さんが参加していました。 彼は3kmを12分で走っていました。(トライアスロン、フルマラソンなど行う選手) ハワイのホノルルフルマラソンを2回も完走して感動したことを話してくれました。 円周走の練習方法も教えてもらいました。(運動場の中心に杭を打ってそこからロープを20mつけてぐるぐる回る方法)  

円周走を実際にやってみて、自由さを感じました。(12月) 1月からその方法で練習を開始しました。  ホノルルマラソンを目標に立てました。 1月は1周125m、1日1500m(12周)走りました。 2月には24周、3月は48周、その後10km迄走れるようになりました。 ロードレースがあり、伴奏者を名乗り出てくる人が居ました。(寿司屋の主人) 1990年6月に10kmにエントリーして朝6時スタートでした。 49分6秒で関す出来ました。

その後20km、30kmの練習をしてホノルルマラソンに参加しました。 3時間56分19秒で4時間を切ることが出来ました。  バロセロナパラリンピックには3時間10分を切ったら推薦をするという話がありました。  3時間を切るという情報はないといいことを聞きまいた。 スナックのマスターがもしかしたら3時間を切れるかもしれないと言ってくれました。 週に2回一緒に付き合うと言ってくれました。(一般道を走れる。 1990年12月) 一般道から山の道も走ろうという事になりました。 いろいろと厳しい練習が加わってきました。  11月の大会がありそこに参加して、2時間55分10秒で目標を越えてしまいました。  1991年は自分の人生を変えるような1年でした。  

バロセロナパラリンピックに初めて出場、スタートは夕方でした。 伴走者のスナックのマスターが35kmで足が痙攣しました。 足をマッサージすることを3回繰り返してゴールすることができました。 6位入賞でした。 新たに伴奏者を紹介してもらいました。 新日鉄の安田恭平さん?でした。(実業団の第一線のランナー)  左右への曲がる事、登り下り速度のなどの情報を教えて貰えれば大丈夫と言ったら、安心してくれました。 

1996年のアトランタパラリンピックでは、前回バロセロナパラリンピックで金メダルをとった世界記録保持者のイタリアのカルロ?選手が2時間43分台を持っていたので、彼をマークして走りました。  彼はペースが上がらなくて5km地点で2人が前に飛び出したので、それについていくという事になりました。 16km地点で追いついて、メキシコの選手は下がって行きましたが、コロンビアの選手は絶好調でした。  21km地点で安田さんが段差を見逃して、僕が転んでしまいました。  安田さんは心臓が凍り付く想いだったと、後で言っていました。  手は擦り傷がいっぱいありましたが、足は無傷でした。(柔道の受け身が役立つ。) 

もう全力を出すのみだと思いました。 28km地点の下りでスパートしたら30km地点で100mの差がついて、30km過ぎるとなかなか身体が動かず、安田さんが励ましたり怒ったり、イタリアの選手が後ろから来ているとかいろいろやってくれました。  ゴールした時にはホッとしたという感じでした。 2時間50分56秒でした。 君が代が胸にジーンと響きました。 親にはいろいろ迷惑を掛けてきたので、親孝行が初めて出来たと感じました。 その後はトライアスロンにも挑戦しています。 2007年にはゴールまで帰ってこられました。   今年は全国障害者スポーツ大会が佐賀県で開催されます。 野球の部で指定選手に選ばれて、参加する予定です。 「目が見えなくても夢は観れる。 光は無くても人生は明るい。」  目標を持って生きて行けば人生は明るくなると思っています。