2024年6月28日金曜日

木村 有子(チェコ語翻訳家)        ・〔ことばの贈りもの〕 チェコは私の心のふるさと

 木村 有子(チェコ語翻訳家)     ・〔ことばの贈りもの〕 チェコは私の心のふるさと

木村さんは1962年東京生まれ。 小学校3年生から3年間プラハで暮らしました。 日本の大学を卒業した後、プラハのプラハ・カレル大学に2年間留学。  その後ドイツの大学でも学びを深べました。 現在は翻訳家としてチェコの絵本や映画字幕の翻訳などを手掛けています。 今年の初めにはチェコでの暮らしや翻訳家になるまでの道のりを、「チェコのヤポンカ」と言う本にまとめました。 

「ヤポンカ」女性と言う意味です。 チェコはドイツ、ポーランド、オーストリア、スロバキアを境にしています。  1989年のビロード革命の後、1993年にチェコとスロバキアに分離独立をしました。 面積は北海道と同じぐらいで、人口は東京都より少し少ない1100万人です。 緯度は樺太ぐらいです。 気温はかなり下がります。 1968年にチェコ事件があり、「プラハの春」と言う民主化運動だったんですが、ソ連とワルシャワ条約機構軍が軍事力で押さえた事件でした。 新聞記者の父は首都プラハに支局を開設することになって私たち家族も1970年の夏にプラハに行くことになりました。 私がいたのは約3年間です。 夜は暗いし人があまり歩いてはいませんでした。  いきなりチェコ語の世界に入ってしまいました。 身振り手振りからのスタートでした。 

9月が新学期でした。 日本人はゼロでした。 休み時間になるとみんな寄ってきて無視されていないという感覚がありました。 言葉も順次慣れていきました。 チェコの人は週末に別荘で暮らすことが多いんです。  誘われて森のなかに入って行ってキノコを捜したり遊びました。 母も妹もチェコの人tの付き合いがあり、私も親しい友達とその家族の人とも付き合いが出来ました。 漢字も書けなくなってきていて、父も心配して私は先に一人で日本に帰ることになりました。(父の実家)  日本に戻ってきた時の方がよそ者扱いという感じでした。  私が中学1年生の秋に家族が帰ってきました。  

チェコに対する思いとチェコ語が喋れなくなったギャップに気が付いて、もう一回チェコ語をやり直したいと思って、大学卒業後チェコに留学することにしました。 西側諸国から来ているというので、警戒された部分もありました。 4人寄れば一人はスパイかもしれないというようなことも言われて、「気を付けろ。」と言うアドバイスを貰っているうちに委縮してきてしまいました。 人を信用していいのかどうか考えてしまいました。 子供の頃の知り合いの家族からいろいろお世話になったり、新しく知り合いになった人もいて、プラハから3時間ぐらいのところで楽しく一緒に過ごすこともありました。  東ドイツの女性とも親しくなり東ドイツに一緒に行ったりもしました。  ベルリンの壁も観てきました。 

1986年に留学を終えて日本に帰ってきました。  1989年に夫の語学留学に伴ってドイツの西ベルリンに行くことになりました。  天安門事件があったり、激動の年と言われました。 11月9日に西ベルリンの壁に立ち会ってしまいました。 東ベルリンの車や人が入ってきていました。  大歓声、熱狂でした。 東ベルリンに住んでいる友人とは3年振りに会う事が出来ました。  彼女は冷静で拍子抜けしました。 

チェコ語の翻訳家として絵本の翻訳、映画の字幕の翻訳を手掛けるようになりました。   子供の頃見たチェコの絵本に感動はしていました。  チェコの本を紹介できればいいなあと思いました。(中学生時代)  翻訳に当たっては子供時代の経験が凄く役に立ちました。  最初の翻訳の仕事は映画の字幕の仕事でした。  辞典が無くてチェコ語を英語、英語を日本語と言う風にいて調べました。 

絵本の翻訳は40歳になって初めて出来ました。(「もぐらくん」シリー) ワクワク、感慨深いものがありました。  母はパワフルでチェコに行っても馴染むのが早かったです。母は現在89歳です。  チェコでは温かい人達に巡り合えて、幸せな子供時代を過ごす事が出来たことが、わたしのその後のやりたい事、生涯を決めたと言っても過言ではないと思います。  恩返しにチェコの優れた本を一冊でも多く日本に紹介したいと思ています。