2024年6月30日日曜日

原由美子(スタイリスト)         ・着ることをもっと大事にしてほしい

 原由美子(スタイリスト)         ・着ることをもっと大事にしてほしい

原さんは1945年生まれ、神奈川県出身。 父は著述家の原奎一郎、祖父は総理大臣の原敬。 慶應義塾大学文学部仏文学科卒業後、雑誌の翻訳を始めて、ちょうどそのころ創刊された女性ファッション誌「アンアン」にスタッフとして参加、1972年からまだ日本に定着していなかった職業スタイリストとして仕事を始め、数々の雑誌のファッションページに携わってきまいた。 2000年ごろからは、洋服だけではなく着物のスタイリングにも積極的に取り組み、洋服とは異なる和服着物の楽しみ方を提案しています。 スタイリストとなって半世紀あまり、衣服は自分を表現する手段である、そして自分のスタイルをみつけること、紙面を通して伝え続けてきた原さんにお話を伺いました。

小さいころはおしゃれとか着るものには、女の子なので或る程度関心はありました。 父が服飾評論家の原奎一郎です。 母も洋服を作ったり、美容師でした。 1964年の東京オリンピックの入場式をモノクロの画面で観ていたら、「真っ赤なブラザーです。」と叫ぶんで、「真っ赤なんだ。嫌だー。」と言ったら、父が「ブレザーと言うのは燃えるようなという事で、赤が基本なんだよ。」と言っていました。  父はイギリスに留学していました。 祖父が原敬で暗殺されるという事件がありましたが、「帰るに及ばす。」と言う連絡があり、お葬式とかには帰らなかったそうです。  暗殺され時に薄いピンクのシャツを着ていて、おしゃれな人だったという話は聞きました。  16歳になった時に、父が「セブンチーン」を買って来てくれるようになってくれました。 

鎌倉に住んでいて、海からは15分ぐらいの裏山があるところでした。  野生の水仙なども咲いていて、良い環境でした。  慶應義塾大学文学部仏文学科に進みました。 真面目に勉強はしました。 「女子学生亡国論」というのがありましたが、勉強してもいいじゃないかと言う思いはありました。  それまで13年間女ばかりの学校に通っていました。 フランスの雑誌について、どういう内容かを訳す仕事を頼まれて、それがフランスの「ELLEでした。 平凡出版(現・マガジンハウス)が新しい女性誌をだすという事で、「ELLE」の日本版という事でした。  雑誌の材料を観れたことは大きかったと思います。   

1972年よりスタイリストの仕事を始めました。  1973年婦人公論』と言う雑誌が読み物が主体だった雑誌に、ファッションを再開するからという事で、やってみないかと言うお話を頂きました。 「アンアン」よりは大人の読み物で、テーマとかモデルとかはお任せしますという事でした。 これをやれたのは良かったと思います。 

「アンアン」の仕事をしていた時に、社員になら兄かと言う半紙がありましたが、その時にはすごく悩んで、婦人公論』もやっていたので社員になったらそれが出来なくなるし、展示会なども参加したいので、続けられる保証が無いので、社員になるのは辞めました。  フリーで事務所を立ち上げました。  コマーシャルの話もありましたが、対応はしませんでした。 雑誌への思い入れがありました。 

書くと言う仕事もし始めました。 最初の頃には、判らないことがると父に相談したりしました。 鎌倉にいた幼いころに、日本舞踊を習いました。  着物の衣装に興味があり楽しかったです。 着物のページを婦人公論』でやって、クロワッサン』でもやらせていただいて、着物屋さんから顧問的に選びとかやってみないかと言われました。 春夏秋冬にも対応できて、正装として美しく着物のような民族衣装は他にはないのでは仁かと思います。 着物は日本人には似合うので、どんな色、どんな柄を持ってきても着れるんですね。  それが凄いと思います。 大胆な色でも着てしまうと収まるんですね。 

印象に残っているのは、最初に1973年に見た高田賢三のファッションでした。  大きな会場で行って、雑誌モデルを全員使っていて、それまでは向こうではそういったことはしていなかった。 感激しました。  着ることの楽しさは、自分の中では仕事としてしまったので、楽しくはなくなっちゃいました。  大人の方、若い人でももうちょっと着る事を大切に考えたらいいな、という事はあります。  初めて会った人が見る時、貴方は着るもの最初の印象になっているわけです。  特定に誰かに会いに行くんではなくて、常のそうなわけです。 毎日着替えるという事は大事にしていると思うんですが、その人を覚えられない。 年齢が年齢なので、そういう気を遣う自分が厭になる。 でもどうでもいいというわけにも行かないが。