2024年6月27日木曜日

矢野きよ実(書家・パーソナリティ)    ・〔私のアート交遊録〕 “いい日になりますように”

矢野きよ実(書家・パーソナリティ)  ・〔私のアート交遊録〕 “いい日になりますように” 

名古屋を中心にラジオやテレビのパーソナリテイとして幅広い層から支持されています。 書道かとしても独特の世界観が注目を集めている矢野さん、特にその書体や矢野さんが生み出す言葉、「無敵」、「奇跡」、「生きている」、「生きたい」、「君のために」、などと言った独創的な言葉選びも、観る人を虜にしています。 さらに東日本大震災から、医師団と被災地に入り、被災地を支援するプロジェクトを立ち上げました。 そこで始めた「書きましょ」と言う活動では、子供たちが書いた書を預かり、全国で展示、子供達の心を多くの人たちに伝える講演を行ってきました。 多方面で生きる事、命の大切さを伝える活動を続けている書家の矢野きよ実さんに、言葉や文字の持つ力、人とのつながりに力を注ぐその思いを伺いました。

洋服屋さんをやっていて、親が忙しくて段ボールの中に入れられて、近所のおばさんが抱いて連れて行って、お風呂にいれてくれたり、ご飯を食べさせてくれたりして育ちました。 無口な静かな子でした。 学校に入っても人とあまりしゃべれませんでした。  タイガーマスクの歌をきっかけに、歌を歌うようになって変わりました。  下町なので、人が集まるところには手伝いに行くように育ちました。

書道家「霄花(しょうか)」として活躍しています。 大きな宇宙に咲くちいさな花であれ、という意味の名前です。 習字を始めたのは6歳からで、書を始めたのは17歳からです。  「はと」と言う字をかいたら、父が上手いとほめてくれてそれから署が好きになりました。 文鎮もその時にもらって今も大事に使っています。 17歳の時に父と一緒に書を習い始めましたが、ちちが48歳の時に亡くなってしまいました。 書を習いに行くのを辞めようと思ったら、筆を貰ってなんでもいいから書きなさいと言われました。 「悲しい」と言う言葉を、畳一畳ぐらいの紙を呉れて、100枚、200枚と毎週書きました。 先生が愛知県美術館に公募展に出してくれました。  ある審査員が「これ駄目だな。 さみしすぎるものな。」と言ったのを聞いて、私にすれば賞よりも物凄い褒め言葉で、書をやろうと思いました。 

「無敵」は代表作になっています。 30数年前に書いたものです。 自分には負けないという気持ちで書いて、それがバッチになって、ジャーナリストの鳥越俊太郎さんが付けてきました。  2005年に大腸がんになって、「病気は敵ではなく、自分に負けないため。」と言われました。 今も付けてもらっています。 鳥越さんがクリント・イーストウッドに会った時に、クリント・イーストウッドがどうしても欲しいという事で、バッチを付けています。 いろいろな人たちが付けていてくれます。  「花ちゃんの味噌汁」と言う映画での乳がんで亡くなった方へギターリストの三宅伸治さんが差し上げています。 熊本大震災で、書がチャリティーに用いられたりして、そういって歩いていくんだなと思いました。 10年前に私は肺腺癌になりました。 2/3の肺を取りました。  自分のお守りみたいなものです。 秋野暢子さんも食道がんを患って、バッチを今も付けています。 「無敵」戦うものではなくて、自分と向き合うものです。 被災地に行くと子供たちが書いて居たり、学校の玄関などに「無敵」と言う言葉が貼ってあったりします。 病院などにも貼ってあります。 

「生きている 生きてやる 生きたい 君のために」は寛仁親王の主治医が愛知県の方で、それをお持ちいただいています。  「かかってこい」は負けたくはない、力が無い自分にも負けないよと言う気持ちで、そこに書をしたためます。 相手ではなく自分に向けて言っています。  

「いい日になりますように」は優しさを感じさせる言葉です。 10年前に手術をした時に、明日は判らない、だから今日がいい日であるように、まず今日でいいよねと、今日いい日にしようと言ったらそれが一番かなと思います。  仲良しの親友が或る日すい臓がんが見つかって、3か月で死んでしまいました。  「いい日になりますように」はその人その人の生き方の中で、広がってゆくんだなと思いました。 

朝茶はその日の難逃れで、お茶を大事に入れなさいという事で、叔母の入れるお茶が物凄くおいしんです。 一服すると穏やかな気持ちになります。  書も「間」があり、その余白も美しさであり、書、お茶、お花、なども「空間の美」ですね。 

東日本大震災の後の復興支援、震災後すぐに行きました。 石巻から入って行ったところでは300人余りが亡くなって、遺体捜査をしていた人が硯を見つけて、硯をもらい受けて名古屋に帰って来ました。  その硯でいろんな作品を書きました。  3か月後に或る体育館に行きました。 そこで子供たちが「負けてたまるか」とかいろいろ書きました。 胸のなかにあるものを手を通して筆で書いてみてくださと言って、脇では何も言わない。 陸前高田では2011年10月に一番最初に書いた子が「ちち」と書きました。 他には流された人の名前とか、「時」「いま」「時間」「一人にしないで」「夢のなかであおうね」とか書きますが、書かない子もいて10分前だと言うと、突然書きだした子がいました。 「いいことがある」と書きました。 「絶対いいことがある」と書いて「いいことがある」を10分間書き続けました。 

私の手を握って園ちゃん?が「友達が幼稚園のバスに乗ってみんな死んでしまった。」と言うんです。 フラッシュバックで2年間お母さんにも何も言えなくなってしまいました。 友達は間違って天国行きのバスの乗ってしまったので、私たちもいずれ乗るよ、そうすれば会えるよ、と言ったら「みんな元気に」と書きました。  先生が次の日からしゃべり出しました、と言うんです。  「ちち」と書いてくれた子が「持って行ってくれ。」という事で、その後全国の美術館とかいろいろなところで、展示しました。 「忘れられるのが怖いから返さないでくれ。」と言われて今も預かっています。 何千枚も預かっています。

全国の児童養護施設にも常に行っています。  「殺さないで」「虐待はこわい」「いじめないで」「親は鬼」「こんなところに来たくて来たわけではない」とか施設の子供の心の叫びをかいていて、被災地の子とは全く違う書を書きます。 デーケアのおじいちゃんおばちゃんも書いてもらいます。  家族の方はおじいちゃんおばちゃんはみんな死にたいんだと思っていたというんです。 でも「生きたい」「生きる」「好きな人の昔の名前」「お母さん会いたい」と書きます。 

「無敵」プロジェクトは一番参加した時には石巻でお祭りをやった時には250人行きました。  皆が出来ることをやる。  会えた人が大事です。 「離れているけれども思ってもらっている。 離れているけれどもみんな味方で私はいたい。 味方でいてくれる。」 綺麗なものを見た時に誰の顔が浮かぶか、家族の顔、友達の顔。 「人の思いが人を良くする。」、という事を信じていて、それで生かして貰っていると思います。 一番のお薦めは「綺麗な夕焼け」だと思います。(同じ夕焼けを一緒に見る。)