晃(元フィンガー5)(歌手) ・自分の歌をさがし続けて
晃さんは1961年沖縄県出身。 幼いころからロックやソウルと言った洋楽に親しみ、1972年小学校5年生と時に「フィンガー5」としてデビュー、「個人授業」「恋のダイアル6700」「学園天国」と言った楽曲がヒットして彼らのファッション、ダンス、ルックスなども話題になって、当時の若者たちの心をつかみました。 死して今も歌い続けています。
「フィンガー5」は引退はしていなくてやろうと思えばできるんです。 全国津々浦々お客さんのところに行くコンサートをやっています。 月に10数か所回っています。 今歌っているのは「個人授業」「学園天国」です。
生まれた時には米軍が統治していた返還前です。 テレビがNHKと民放の2チャンネルだけでした。 ラジオはFENとか英語のラジオ番組ばっかりです。 日本の歌謡曲、ポップスなどはほとんど聞いてないです。 家がクリーニング屋とダンスホールみたいな形でバーをやっていたので、外人さん向けの曲ばっかり流していました。 影響でそればっかり聞いていました。 町を歩いていても洋楽しか聞こえてきませんでした。 3人の兄が踊りを踊らせるためのバンドをやっていました。 或る音楽祭で3人が出て優勝してしまって、東京へ出てみたらどうかという事になりました。 3人だと足りないので妙子と僕にも入れという事になり、横田基地へ何とか頼み込んでようやく許可が出てやってみたら、大うけしました。
そこから本格的に5人で始めました。 僕はサイドボーカルでした。 ベトナム戦争の時代で、子供は本国にいて、僕らを見て思い出して泣くんです。 歌を歌うと泣きながらお金(チップ)が飛んでくるんです。 ポケットに一杯入ってこれで火がついちゃいまして、一生懸命歌いました。 (小学校2年生ぐらい) 4,5年やっていたが売れなくて1972年に沖縄に帰ろうかと言う話が持ち上がった時に、最後のチャンスを欲しいと言われてキングレコードからフィリップスレコードに移籍して、キャロル(ロックバンド 矢沢永吉など)と同じディレクターの人から活動を開始しました。 或る時都倉俊一さんに聞いてもらう機会がありました。 そして作っていただいたのが「個人授業」でした。 当時の僕をイメージしていました。 作詞は阿久 悠先生でした。 小学生でサングラスは当時はいませんでしたが、サングラスを100個近くは会場で投げています。
歌番組が多い時代で凄く忙しかったです。 寝るのが朝の4,5時ごろで7,8時ごろには起きて学校に行って、1~2時間学校にいて、次に仕事場に行くような状況でした。 学校では寝ていました。(先生が寝かせてくれました。)
精神状態がだめになり、体力も駄目になり、限界で家族全員でアメリカに逃げました。 アメリカのレベルの高さにびっくりしました。 半年して日本に帰って来ましたが、声変わりがして、あのような楽曲は出来なくなりました。 活動は停止しました。(1977,8年 中学生) 17,8歳のころいろいろ仕事につきましたが、精神的にもまいっているしお金もなく、大変でした。(親が使い果たしていました。)
或る人から「開き直って、元フィンガー5の晃ですと名乗ってやればいいんじゃないの。」と言われて、名乗り始めました。 いろいろな仕事をしてきて、「又ゼロから始めるなら音楽をやったらどうか。」と言われて、再デビューしました。 その場の雰囲気をみて、選曲していきました。 63歳になりました。 大人の歌も歌いたいですね。