寺田恵子(ロックボーカリスト) ・生涯ロックを歌い続ける!
1963年千葉県の出身。 1985年ロックバンド「SHOW-YA」のボーカルとして「素敵にダンシング」でデビュー。 1989年8枚目のシングル「限界LOVERS」が大ヒットし、女性ロックバンドとしてパイオニア的な存在となりました。 その後1991年SHOW-YAを脱退、ソロとして活動。 2005年SHOW-YAを再結成して、一昨年デビュー35周年を迎え、海外進出など精力的に活動しています。
デビュー当時は、女性バンドとか女性ミュージシャン自体が凄く少なかったので、男子に負けてはいけないとい思いがあり、努力していました。 女性ファンが多かったが、子育てなどがあり、その後親子で来たりもしています。 男性ファンも増えました。
子どものころ、歌が好きで音楽の仕事がしたいという願望が強くて、10,11歳ごろに「カルメン・牧&OZ」のレコードが家に有りそれを聞いた時に、私はこの人の跡を継ぐんだと思って、そこからロックにのめり込みました。 17歳の頃にSHOW-YAから声を掛けられましたが、断っていました。 高校2年生までは地味でした。 分校になったのを機会に、自分が派手なほうに成ろうと思って、そのころから年上に目をつけられるようになって、やんちゃなほうに行きました。 高校1年生の時、文化祭でボーカルを探していた男性バンドに誘われ、最初はこの男性主体の7人組バンドで活動しました。 その後SHOW-YAに入りました。
1985年にデビューしました。 ポップなロックからハードなロックに変えていきました。 デビューした時にすぐ売れるのではないかと思いましたが、違って、自分でビジュアルも考えたりしているうちに4年ぐらい過ぎてしまいました。 ある日、鏡で自分の下着姿を見て「めちゃくちゃかっこいい」と思い、さらけ出して生きて行こうと思い、以後自らの下着風コスチュームにして、ハードロックというSHOW-YAの原点になりました。 売れないと思っていましたが、「限界LOVERS」がヒットしました。 その後バンドを脱退しました。
それぞれがいいよと言ってくれるまでに5年かかって、2005年にSHOW-YAを再結成しました。 アルバムを作るのに7年間かかりました。 全部エネルギーを出し切った時の気持ちよさに浸ることがいいんですね。 それを求めるためにパワーアップしていきました。 耳だけではなく、目とその場の空気と言うのは会場に来ないと得られない感覚で、ライブを続けることは凄く大事だと思っています。 SHOW-YAという運命的な結びつきは一番大きいような気がします。 私はSHOW-YAと男を取る時に、どっちを取るかと言われたら多分SHOW-YAを取ると思います。 喧嘩をしても戻ってこれるし、SHOW-YAには家族に近いものがあると思います。
昨年出したアルバムが全編英語でした。 又海外に向けてと言う話になって、チャレンジすることになりました。 今年1月にはフルオーケストラと共演したコンサートを行う。 20分以上の組曲に挑戦しました。
*「限界LOVERS」 バトル オーケストラ