浅利政俊(桜研究家) ・桜で咲かせる平和のこころ 2
大野農業学校、北海道教育大学卒業後、松前町で教員をした後、教育植物園の桜日本園作りに関わって、財団法人桜の会から「桜守」にも選ばれている。 「函館空襲を記録する会」の代表も務める。
昭和50年に函館に転勤することになりました。 中島小学校に勤めた時に、5年生の祖父(青函連絡船の船長)が函館空襲で亡くなったり、家が機銃掃射を受けたりした。 どうして函館空襲のことを教えてくれないのか、と言われました。 図書館とか教育委員会に行っても何にも資料がなかったので、函館空襲について調べることにしました。 警察は、病院はどうしていたのかとか、あらゆる領域について調べようと思いました。 青函連絡船が空襲された様子を調べました。 病院には医師は戦場に行っていない、看護師も従軍看護師としていない、看護学校を出たばっかりの若い人たちだけでした。 コンクリートつくりの大きな建物があったが空襲に遭い26人が一気に亡くなってしまった。 母親が子供を連れて防空壕に入るつもりが、後からついてくるはずの子供がいなかった。 防空壕を開けて欲しいと頼んだが、見つかってしまうという事で開けることが出来なかった。 外で声が聞こえていたが、まもなく爆弾の音がしたと思ったら、子供の声がしなくなって、しばらくして外へ出ることが出来て、目の前には頭がぐじゃぐじゃになって子供が倒れていた。 母親は泣いて泣いて泣き崩れていた。
函館空襲は20年の7月14日、15日の2日ありました。 全部証言者に会いました。 調べたものを一纏めにして「教えてください 函館空襲を」という 本を書きました。 当時、青函連絡船が8隻沈没、座礁炎上4隻、死者は300人を超えたと言われる。 慰霊碑を作る目的があったので正確に名前を書き入れるためには、正確に調べなければならなかった。 理念としては、①調べる事、②記録する事、③慰霊する事、④伝えてゆく事、この4つを柱に「函館空襲を記録する会」の活動を今も続けています。 毎年慰霊祭を行っています。 空襲の実態、戦争の悲惨さを実感として伝えたかった。 学校から呼ばれて子供たちに話しますが、素直に聞きます。
「桜保存子供会」を松前で作っていて、八重桜を沢山作っています。 パンダが中国から来て、八重桜を送りたいとの子供たちからの提案がありました。 とんとん拍子に話が進んで、知事さんから政府に掛け合って、官房長官がいい話ではないかという事で中国に話して、40数本を北京の公園があり、そこで受け取ってもらいました。 世界にニュースとして伝わり、中国からたくさんの人が松前にきました。 鑑真和上の精神に学ぼうと思いました。 中国の山東?小学校にその桜は渡りました。 お礼として楽譜が送られてきました。 「友情の桜」、「桜の木陰で絵を描こう」というものです。
アメリカ、イギリス、ブラジル、北朝鮮、ポーランドなど、ポーランドのアウシュビッツ収容所跡にも鎮魂の桜が植えられています。 寒さに強い、千島桜、深山(みやま)桜、私が新しく作った紅豊を送りましたが、定着して咲いています。
函館の慰霊碑には撃墜されたアメリカの兵隊、英連邦の捕虜になった方たちを含め、戦争で犠牲になった方を慰霊しています。 アメリカ、イギリス、オーストラリアから見に来ます。 共感してくれました。
輸送船で宮崎丸、大運丸?という船が沈没させられて、7年半かかってようやく昨年暮れに明らかにすることができました。 7月14日に31名の方の慰霊祭をすることにしています。 ほとんど九州の人が多く、四国の人もいました。 石炭輸送をしていて魚雷で一発で沈没してしまいました。 50%は19歳以下の少年乗組員でした。 朝鮮人の方もいました。
本気で平和で生きるという事は戦争の残酷さを徹底的に調べなければいけない。 戦争に向かわせるような子供を作ってはいけない。 そういう教育を母校の北海道教育大学で10何年間やりました。 私が教えた子供たちは平和について考えてくれる人が沢山います。 私が手本にしているのは鑑真和上なんです。 学習することに熱心だったとともに、誠実に日本の人に大事なことを教えなければならないという、誠実に実行するという心を持っていた。 奉仕の精神を持っていた、 優しい笑顔をしている。
桜を通して平和な国、平和な仕事、共感しあえる心を作っていきたいなあと思っています。