戸張捷(ゴルフトーナメントプロデューサー)・【スポーツ明日への伝言】ゴルフの未来をプロデュースする
テレビのゴルフ中継から流れてくるソフトな声でい馴染みの戸張捷さん、ゴルフの解説者と思われている方も多いかもしれませんが、本業は多岐にわたります。 日本ゴルフ協会主催の日本オープンゴルフ選手権などのマネージメント、プロゴルフトーナメントの企画運営、ゴルフ場の設計監修、選手のマネージメントなど裏方として長年にわたりゴルフ界を支えてきました。
就職したのがゴルフのメーカーで、普通に社員として働いていましたが、1年後にはゴルフ人口を増やすにはどうしたらいいかと言うところから始まりました。 テレビ、メディアでゴルフのニュースがどんどん流れた方がいい。 そのためにはトーナメントを増やすのが一番早道かなと思いました。 今でこそゴルフ人口は800万人ぐらいいますが、当時は100万人いるかいないかという時代でした。 最初に手掛けたのが「サンケイクラシック」、1973年です。 1972年に日本オープンゴルフ選手権をNHKにお願いに行って初中継をしてもらいました。 翌年の日本オープンゴルフ選手権ではNHKのディレクターから言われてリポーターもやりました。 1980年の全米オープンゴルフ選手権では青木選手とジャックニクラウスの死闘が放送されて、それも現地から解説をしました。 青木選手とは仲もよかったので、インタビューもし易いだろうし、いろいろ便利だろうから一緒に行こうと言われて行きましたがNHKからは4人しか来なかったです。 今では100人以上行くでしょうね。 初日からジャックニクラウスと回っていて、緊張していたので奥さんから緊張をほぐすように言われて、伺って一緒に毎日トランプ、花札をやっていました。 当時全米オープンゴルフ選手権の2位は本当に凄かったです。
父親が我孫子ゴルフ場を作った時のメンバーの一人なんです。 16歳の時に父は亡くなってしまいました。 父親の仲間から入れと言われて16歳で我孫子ゴルフ場に入り、仲間の人たちと一緒に回らせてもらいました。 いろいろなことを教えてもらいました。 山本増二郎さん(日本プロゴルフ殿堂入り)は我孫子にきてヘッドプロになり、我孫子の事務所にいた林由郎さんをアシスタントプロにして林由郎さんを育てるんですね。 林由郎さんがプロになって強くなった頃に我孫子中学を卒業した青木功が中卒でキャディーで来るんです。
高校、大学とゴルフをして住友ゴム工業に入社、ゴルフトーナメントを立ち上げるようになる。 自分で勝手にゴルフトーナメントディレクターと言う名前を付けました。 スポンサーを探す、開催するゴルフコースを捜す、地元の自治体とも話をする、プロの協会とも話をする、賞金を決める、予算を組むなど全体をやります。 アメリカみたいにロープを張ってその後ろでギャラリーが見るという風にしたら、相当怒られました。 アメリカと同じリーディングボードでやったら説明するのが大変でした。 スコア―ボードはプロセスが大事なのでバーディー、イーグルを取ったとか、判るボードじゃないとストーリーが判らないから、日本オープンゴルフなど僕は必ずあのボードを使います。
トム・ワトソン(メジャー8回優勝) ジーン・サラゼン(サンドウェッジを考案した) などを日本に呼び込む。 サラゼンは10年間ぐらい来てくれて嬉しかったです。
日本では接待ゴルフが主流で、プロも親分子分みたいな師弟関係があって、ジャンボが出てきてそういったしがらみを全部壊してくれました。 飛行機のフラップをヒントにサラゼンはサンドウェッジを考案した。 特許を取っておけばよかったと悔んだそうです。 言い過ぎかもしれないが、プレイするだけではなくて、ゴルフ文化というものがあると思います。 クラブの本数も決まっていて、18ホールでカップも世界共通で108mmだし、人間の考える事を弄びながら、真剣にやらないと駄目なんだよと言う事を教えてくれる。 ゴルフは面白いゲームだと思います。 ゴルフは自分で審判するが、ジュニアでスコアをごまかす選手が時々いますが、聞くとお父さんに怒られるからと言うんです。 違う観点で子供にゴルフをやらせるというところからそういう子供がそういう事をやるんで、ゴルフの良さと正反対のことをやらせてしまう。 これだけはやめて欲しいと思います。
マッチプレイはゴルフの原点なので、マッチプレイのトーナメントをやるように言っているんですが、スポンサーがつかないとか、どこで終わるか判らないのでテレビが嫌がるとか、ネガティブなことが最初に出てくる。 違うだろうと思いますが。