2022年4月7日木曜日

小平陽一(元家庭科教員)       ・僕が教えたかった"人間生活科"

  小平陽一(元家庭科教員)       ・僕が教えたかった"人間生活科"

高校で18年間化学を教えた後に、新たに家庭科の教員免許を取得して定年退職するまで家庭科の先生を務めました。  どんな思いが芽生え化学から家庭科の先生になったのか、伺いました。

現在72歳、東京理科大学の理学部を卒業後、化学工業会社に就職。 大学の化学研究所を経て1976年に埼玉県で高校教員としてのキャリアをスタートさせます。   

小学校2年生の頃、「鉄腕アトム」のお茶の水博士に憧れていました。  就職はしましたが、大学時代の先生に誘われて化学研究所の方にいき、結婚をして子供もできて、一家を支えて行かなければならないという思いもあり、研究所の先が見えないポジションよりも安定した職業に就こうと思いました。  高校の教員に転職しました。  研究所にいた頃は妻は高校の化学の先生をしていましたが、僕が高校の先生になったと同時に専業主婦になりました。  1年も経たないうちに妻が働きたいという事で、子供を保育園への送り迎えとか、食事の購入なども僕がやるようになりました。   当時はスーパーで男が買い物をすることは皆無でした。4年後に二人目が生まれて大変さが3,4倍に増したような気がしました。   離乳食なども作るようになりました。  何もかも放り出したくなるような気持にもなりました。   

先生としても生徒とのぶつかり合いとか、辛い事はいっぱいありました。  化学の先生としては、自然界の何故という事、自分が感じていた常識を打ち破るとか、はっとさせられることとか、考えながら授業の準備などしていました。   進学校だったので3年生になると受験科目にとっていない生徒にとっては無駄な時間になってしまうわけです。  無理やりやらせる意味は何なんだろうと思いました。   生活に役立つ科学も考え始めました。 原子爆弾、農薬、公害など科学の負の部分も出てきていました。  暮らしの視点から豆腐を作ったり、石鹸を作ったり、染め物、タラの芽を生徒が取ってきてそれを天ぷらにしたりしました。  総合理科の中でやりました。  生徒に家庭科みたいだと言われて、家庭科があることを改めて知りました。   家庭生活では自分の家事能力の低さを感じていまして、男も家事能力を身に付けるべきだと思いました。   生活に役立つ科学という面からも 家庭科にシフトしていきました。   教育における男女平等が出来ていないという事が家庭科の女子のみ必修という事に批判もあったりしました。  1989年に学習指導要領が変わって、家庭科男女共修が盛り込まれました。   しかし教科書、施設の準備も必要だった。  実施は1994年になります。  男女共修教科書の作成に声がかかりました。 

1994年に埼玉県では家庭科の教師志望者を募集して、それに手を上げました。   女子栄養大学に1年間通いました。   女性からはおおむね賛成の声がありましたが、男性からはもったいないとか、可哀そうと言うような声が聞こえてきました。   初めて教壇に立た時は鮮明に覚えています。  16年間家庭科の先生をしていました。   化学は答えが一つですが、家庭科は答えがいくつもあると思いました。  家庭科は感性、感覚、共生、総合性とかを重視する教科だなあと思いました。   自分の生き方を考える教科と言う風に考えたいと思いました。   幸せとは何か、家族とは、夫婦とは、人生とは、自分らしさとは何かなど、そういったものに答えはいくつもあると思います。  家庭科は自分にとっての正解を自分で見つけ出す、考え続ける授業としての教科だと思います。  

家庭科は名前があっていないような気がして、或る高校では人間生活科と呼んでいて、略して人生科と言っていていいネ―ミングだと思いました。  現在、埼玉県狭山市の市民大学で教えていますが、70,80代が中心ですが、高校3年生に教えてきたこととほぼ同じです。シニア世代もこれからどう生きて行ったらいいか、日々をどう過ごすか、これが大切かなと思っています。  家族も小さくなってきていて、シングルも増えてきている。  個の時代になるような気がします。  長寿社会になるとどちらかがぽきっと折れると両方倒れちゃうんですね。  これからはそれぞれが自立する力を持つ、自立した個人同士が助け合って関係性を作ってゆく、そういう考え方が必要ではないかと思います。  

現在は、40数年前に教えていた生徒たちと一緒に300坪の畑で野菜を作り、子ども食堂に出荷する活動もしています。    居場所作りは大事だと思っています。