青木宏一郎(園芸研究家) ・【心に花を咲かせて】鷗外が愛した草花
明治から大正時代にかけて活躍した森鴎外、軍医として仕事をしながら「舞姫」、「うたかたの記」、「雁」、「阿部一族」、「山椒大夫」、「高瀬舟」等々たくさんの小説を書き、「ファウスト」、「サロメ」など翻訳書、随筆、評論などなど、その活躍は多岐にわたっています。 多くの肩書を持ち60年の生涯を駆け抜けた森鴎外こと本名 森林太郎の活躍は多くの人の知るところですが、草花を愛し、花畑を作って楽しんでいたことは余り知られていないのではないでしょうか。 江戸の園芸に詳しい 青木宏一郎さんはひょんなことから森鴎外が草花好きだと知って調べ始めたところ、様々な発見があったそうです。
今年 森鴎外が生まれて160年、没後100年。 森鴎外の日記をいくつも読んだらその中にたくさんの植物、庭いじりをやっていたという事を見つけました。 森鴎外記念館に行ったら花暦の紙を見せていただきました。 いわゆるガーデニング日記をつけていました。 そういった観点から森鴎外の作品を読みなおしてみると、360種類出て来て至る所に植物が出て来ます。
「井沢蘭研」という史伝には100以上の植物名が出て来ます。 「歌日記」に54、「即興詩人」に46、「小倉日記」に30、「田楽豆腐」に20と言う風にかなりの植物名が出て来ます。 「山椒大夫」に7つの植物が出て来ます。 元になった説教集にはない植物が一つあって、それがすみれなんです。 子どものころからすみれが気に入っていたようで、日記にも書いているし、杏奴(次女)が晩年の父のなかで、すみれのことをたくさん書いています。 鴎外がすみれに関心があったという事を裏付けるものだったと思います。 春咲く花ですみれが一番気にいっていたと思います。 安寿と厨子王の別れの場面ですみれが出て来ます。 すみれが未来に希望を持たせるように登場させている。 もう一つ好きなのが「センノウ」です。 マツモトセンノウ、ガンピセンノウとかいろいろ種類があります。 この花は江戸時代に流行しました。 戯曲の「人の一生」と言うなかにいれています。 その中で「センノウ」を奥さんに例えています。
森鴎外は多分6歳ぐらいから花を好きになったようです。 「ヰタ・セクスアリス」と言う本の中に出て来ます。 ガーデニングについては「田楽豆腐」と言う作品の中に書いています。 多くの種類が自然に咲くように心がけている。 大正2年は「阿部一族」「佐橋甚五郎」、「ファウスト」、「マクベス」を刊行するなど、又軍医として医務局長の要職に在り多忙を極めていた。 そんな中3月16日から4週間続けて休みの日にはガーデニングをやっているんです。 鴎外以外にこれほど庭いじりをする人はほかには居ないと思います。 花暦から見ると100種類ぐらいは庭に植えていたようです。 鴎外の父親が庭を作ったり盆栽が好きだったようです。 鴎外は赤系統の花が好きでしたが、チューリップ、バラは一切植えていない。 オレンジっぽい日本的な赤を好んでいました。 ほかにはだいだい色っぽい黄色系(カンゾウ、クジャクソウ、ヒャクニチソウなど)を植えていた。 ブルー系統も植えています。 独学で学んだと思います。 敷地が320坪で花畑は20~40坪です。
鴎外は薬草の名で書いていることが多くて、「虎耳草」はユキノシタです。 ケシなども植えていました。 植物園にも多く行っていて、小石川植物園によく行っています。 正岡子規に種を何種類か送ったりしています。 「田楽豆腐」の中には失敗談も記載されています。 鶏頭、月見草などは一杯咲くので2,3本残してほとんど間引いてしまうと、絶えてしまったというような記載があります。
鴎外は仲間の雑誌に「園芸略説」という文章を書いていて、日本の造園がどうあるべきかという事を書いています。 西洋庭園も勧めるような話も書いています。(ドイツから6冊ぐらい持ち帰っている。) 彼はランドスケープ( 景色。景観。風景。)まで考えていたと思います。
私の庭には鴎外の7割の植物があり、同じ思考をしているんだなと気が付いて親しみを感じました。 鴎外は自分の心境を整え、英気を養うためにガーデニングを行い、花を見たり触れたりしていたように思います。